[DC] 書評・食を通じてヒーローの栄光と挫折をたどる・スコット・ジュレク「EAT & RUN 100マイルを走る僕の旅」を読む

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スコット・ジュレク()著「 100マイルを走る僕の旅」が明日2月21日に発売される。当サイト・岩佐も発売前の本書を通読する機会に恵まれた。

スコット・ジュレクは1973年生まれの39歳。アメリカのウルトラマラソンランナーで、アメリカで最も歴史ある100マイルのウルトラ・トレイルランニングレース、ウエスタン・ステイツ(Western States)で1999年から2005年まで7回連続で優勝するなど、偉大な成果を上げてきたアメリカのウルトラマラソン界のスーパースターであり、リビング・レジェンドだ。アメリカでは各種のメディアで取り上げられ、ランニングをしない普通の人たちの間でも有名な存在と聞く。日本にも2003年のハセツネに出場した他、イベントなどで来日しており、よく知られた存在だ。

そんなウルトラ・トレイルランニング界きっての有名人について、我々日本のランナーが知ることは少なかった。彼が解説するランニングのテクニックやトレーニングについての記事を時折読むほかは、とてつもない体力を要するスポーツをしているのに菜食主義者らしい、という程度の情報。縮れた髪に彫りの深い顔。そのくらいのものだろう。そんな彼が昨年アメリカで出版した初の著書が 「EAT & RUN」。なるほど、菜食主義についてのストイックな内容か、と思った私は英語版を入手しながらもパラパラめくる程度で通読していなかった。

ランニングと食について

タイトルにもあるとおり、本書の最大のテーマは食事、食物だ。スコットは菜食主義(ベジタリアン)からさらに進んで乳製品も摂らない完全菜食主義(ヴィーガン)で知られている。しかし、スコットも子供の頃から、あるいはスポーツを始めた頃からヴィーガンだったわけではない。高校生の頃のクロスカントリースキーの合宿で菜食生活をしたときに体調がよく、パフォーマンスが上がったと感じたことから始まり、試行錯誤しながらヴィーガンの食生活がウルトラ・マラソンランナーの競技生活にとっても理想的であると確信するに至る。

ウルトラ・トレイルランナーにとって食は重大な問題。レースでも練習でも長時間の運動中に腹が減ること、さらにはハンガーノックに至ることは最大の恐怖。一方、通常の食生活は、運動故に活発になる食欲の勢いと仲間との語らいを円滑にする飲食の惰性に流されて体重増でパフォーマンス低下に至る恐怖との戦い。

スコットはこれらの恐怖にただおびえてよりハードなトレーニングに逃げ込むことはしなかった。代わって彼は自らの体を実験台にして、様々な食事を試し、自ら調理し、食材を選び(時には自ら栽培し)、その結果どのような体調であったか、どのようなランニングができたか、を確かめていく。

我々、ウルトラ・トレイルランの愛好家で何かのレースなどでチャレンジしたいと思うランナーにとっては、スコットのこのようなたゆまぬ探究の姿勢こそが学ぶべき本質ではないかと思った。ことは食だけではない。100マイルを完走するためのトレーニング、そのために必要な仕事や家庭のマネジメント、暑さ寒さに備える装備、自分がチャレンジしたいこと(例えば挑戦しがいのある海外レースとか)を見極めそれに必要なことを整えていくこと。ランニングというスポーツのシンプルさは、結果を得られるか得られないか、無事に命を落とさずにすむかどうか、全てが究極には自分の選択次第だという点にあると思う。しがらみが多い毎日の中で「究極の自由」をもたらしてくれるのがこのスポーツを最大の魅力なのだ。

正直にいえば、本書を一読しただけでは私は自分自身もスコットと同じような食生活をしようという気にはなれなかった。自分の今の生活では、ヴィーガンの食生活のための食材探しや調理の手間の負担はあまりに大きすぎ、結果として食事の選択肢を大きく減らしてしまう。ただ、今の食生活について考え直す多くのヒントを得た。とはいうものの、本書に挿入されているスコット自身のレシピによるヴィーガンメニューの調理例の写真と解説は食欲を多いにそそる(この写真は英語の原著にはない日本語版だけの特典だ)。

ヒーローの挫折と再生の物語

スポーツと食事についての本と思って読み進めると、実はこの本はスコット自身の半生をたどった自伝であることに気づく。本書を通じて我々はウェスタンステイツ7連覇のヒーローには、栄光と挫折そして再生の物語があったことを知る。それは必ずしも経済的に恵まれなかった少年時代、病弱な母に代わって家族を支えた負担、理不尽な父親との葛藤。長じてからもランナーとして競技と生活を両立することの悩み。栄光をつかんでからは妻や幼なじみとの仲違い。背の高いハンサムで碧眼のランナーにも様々な物語があり、それらは我々がどれかは抱えていそうなものだ。スコットの友人で一緒にアメリカのレースを走ってきたトレイルランナー・石川弘樹さんによる巻末5ページにわたる日本語版解説を読むと、こうしたスコットの人物像がよりくっきりと浮かび上がる。

我々ランナーにとっては、自らの悩みについて考えるためのヒントやきっかけを得るためのストーリーが多く見つけられるだろう。

ウルトラ・トレイルランニングの歩みを知る

スコットがウルトラマラソン(42.195キロを超える距離のレース)に初めて出たのは1994年のMinnesota Voyageur。以来、アメリカの各地の様々なレースに出て、2004年にGrand Slumを達成、2006年にはメキシコのCopper Canyon Ultramarathon(現在のCaballo Blanco Ultramarathon)、さらにはスパルタスロン、UTMBと世界のレースで活躍する。そんなスコットのランナーとしての歩み、ランナー仲間との交遊はウルトラ・トレイルランニングの歴史そのものでもある。

様々なストーリーがあるが、例えば90年代後半にスコットが住んでいたシアトルがトレイルランニングに関わる様々な人やイベントが集まったホットスポットであったこと。ミネソタ出身のスコットが99年に優勝するウェスタンステイツでは、レース前には必ずしも注目の存在ではなかったこと。わずか10数年前の当時、ウェスタンステイツはアメリカで最も注目される100マイルレースであったはずだが、出場するのも上位を競うのも大半が地元カリフォルニア(より狭くいえば北カリフォルニア)のランナーで、地元カリフォルニアのローカルなイベント、という域を出ていなかった。トレイルランニングのコミュニティは小さく、ランナーはサポートを受けているスポーツブランドの違いなど気にかけずに友情を育み、一緒に走っていること。このスポーツが少しずつ大きくなるにつれて、スコットも以前からの仲間のランナーとカルチャーが変わっていくことを嘆いてみたりすること。

トレイルランニングのそんな歴史を感じることができる箇所が随所にあるのだが、書かれているのはわずか10−15年の間の出来事。本場のアメリカでもわずかの期間で大きな変化が起きているこのスポーツに、日本でもこれからどんどん目を見張るような変化が起こっていくのかもしれない。

ランニングに関する豊富な情報源

本書は抽象的な考え方や精神論を綴っているだけではなく、様々な具体的な人物やイベント、場所を挙げながら進んでいく。このことが本書をトレイルランニングに関する様々な情報の宝庫にしている。ランナーの名前でいえば、1997年にアメリカ東部からやってきてファンの間では未知の存在でありながらウェスタンステイツを優勝したマイク・モートンをはじめ、アン・トレイソン、デイヴィット・ホートン、スカッグス兄弟、イアニス・クーロスなどなど、かつてこのスポーツを沸かせた伝説のランナーの名前が次々に出てくる。

もちろんコラムにまとめられているウルトラランニングのノウハウについての記述も簡潔で要を得ている。中には厳しい暑さでおこる脱水や高所でおこる脳水腫(いわゆる高山病の深刻なもの)などなど、日本のトレイルランニングではあまり聞いたことのないトラブルについても触れられている。これらからはアメリカのトレイルランニングは日本以上に厳しい環境の中で敢えて行われることが少なくなく、病気や事故は自己責任というのはただのお題目ではないことがわかる。この他にも、スポーツ生理学の大家・ティム・ノークス博士が提唱して話題を呼んだセントラル・ガバナー理論、ランニングが宗教的な何かと結びついたシュリー・チンモイ・ウルトラランニングチームなど、世界のランニングに関する話題を日々追いかけている私にとっては、聞いたことのある話題がたくさん登場する。

様々な固有名詞が現れるのでやや退屈する向きもあるだろうが、このスポーツのことを知るにつれてこうした情報が詰まった本書の新しい価値を見いだすことができるだろう。

この「EAT & RUN」が原著出版の翌年に日本語で出版されるのは画期的なこと。タイムリーな内容が時期を逃さず日本の読者に届けられることはすばらしい。今年はこのほかにもウルトラ・トレイルランニングに関連しては、日本を代表するトレイルランナー・鏑木毅さんの自伝(アルプスを越えろ! 激走100マイル―― 世界一過酷なトレイルラン)も3月18日刊行予定。トランス・ジャパン・アルプス・レース()のノンフィクション・ドキュメントも出版が予定されている。また、世界最強のマウンテン・アスリートの一人、キリアン(Kilian Jornet)の自伝の英語版(”Run or Die”)が7月にも刊行予定だ。このスポーツについて、そのノウハウやレースの紹介にとどまらず、ランナーや社会にとっての意味を問う著作が現れることを喜びたい。

(記事に関する情報開示・「EAT & RUN 100マイルを走る僕の旅」については当サイト・岩佐幸一が編集協力で関与しています。)

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