トランスジャパンアルプスレース(TJAR)の優勝者が「王者」であれば、そこで大会新記録を打ち立てた者は「神」とも呼べる存在かもしれません。TJARに加えて、UTMBをはじめとする世界の舞台でも活躍してきた土井陵選手は、日本で最も有名なトレイルランナーの一人であり、日本のトレイルランニング・コミュニティで尊敬を集めるアスリートです。
我々が知る土井陵の凄まじいまでの強さがどこから来るのか、そして一人のアスリートが、いかにして今日のトレイルランニングシーンを牽引するリーダーへと成長していったのか。
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その深層に迫るノンフィクションが、千葉弓子氏による『山岳ランナー 土井陵 王者の称号』(平凡社)です。本書は土井陵という人物の進化の物語であり、彼を形作った人々との絆の記録でもあります。土井選手のファンはもちろん、トップアスリートの思考法に触れたいランナー、TJARの世界に関心を持つ人、そして家庭生活と競技や趣味の両立に悩む人まで、幅広い読者に深い示唆をもたらす一冊です。
巧みな構成が生み出す驚きの読書体験
本書は著者である千葉弓子氏が長期にわたって積み重ねたインタビューを並べ、それを生の書き起こしに近いスタイルで構成している点にあります。読むうちに、まるで読者がその場に居合わせているかのような生々しさで、土井選手をはじめとするインタビューに応えた人たちの息遣い、ダイレクトな思考、そして感情の揺れ動きに触れることができるのです。
しかし、この一見シンプルに見える構成にこそ、千葉氏の卓越した編集センスが光っています。読み進めていくうちに、個々のインタビューが点から線へと繋がり、やがて土井陵という人間の成長物語として立体的に浮かび上がってくるのです。周囲の人々から受けた影響、そして彼が周囲にもたらした変化。それらが時間軸とともに明らかになっていく構成は、高度な意図に基づく巧みなものだと気付かされました。
この構成により、読者は土井選手の変化を追体験することになるでしょう。それは、レースに向けた綿密な準備や本番でのパフォーマンスへのこだわりといったレース志向の発言から、次第に社会への責任感や使命感、自らの人生観を語るようになる過程です。その変遷を生の声で感じられることが、本書を単なる伝記以上の価値を持つ作品にしています。
王者の「強さ」の解剖 ─ アスリートの思考法を学びたい人へ
本書の魅力の一つは、土井選手の「強さ」の源泉を多角的に解き明かしている点にあります。
彼の名を不動のものにしたのはTJARでの活躍です。2022年大会で驚異的な大会新記録、そして2024年の連覇。この快挙は多くの人々の記憶に刻まれています。
その背景には段階的な成長の軌跡がありました。2015年に初挑戦のUTMBを11位でフィニッシュし、世界のトップ選手たちと並ぶ実力の持ち主であることを鮮烈に示しました。UTMFで2018年の6位、2022年の2位と着実にステップアップを重ねたのちに、2020年の香港フォートレイルズウルトラチャレンジ(HK4TUC)では56時間25分で完走を果たすなど、100マイルを超える超長距離の耐久レースに挑戦の場を広げるようになります。
本書では、この前人未到の記録を可能にしたトレーニング、合理的に考え抜かれた装備の選択、睡眠や補給といった具体的なノウハウが、土井選手自身の言葉で克明に語られています。それはトレイルランニングというスポーツの過酷さを示すと同時に、読む者を常識にとらわれずに挑戦することへと誘います。
とりわけ、トップアスリートの思考プロセスを学びたいランナーにとっては、「常識にとらわれず、自分で限界を設けない」という彼の哲学や、レース中のペース配分、極限状態でのメンタルコントロール術は、貴重な指針となることでしょう。
TJARの神秘に迫る ─ 日本最高峰のレースを知りたい人へ
TJARに関心を持つ人にとって、本書は格別な価値を持つに違いありません。日本アルプス415kmを自力で踏破するこの過酷なレースは、多くのトレイルランナーにとって憧れであり、畏敬の対象でもあります。
土井選手が初めて挑戦した2021年の大会(2020年大会がコロナ禍で延期されて開催)は悪天候で中止となりましたが、翌2022年に満を持して見せた走りは文字通り神がかりのようでした。北アルプス、中央アルプス、南アルプスを「一日一アルプス」のペースで縦走し、4日17時間33分で完走したのです。この記録がいかに異次元かは、前記録との差を見れば明らかでしょう。
本書では、このTJAR制覇に向けた準備の過程が詳細に描かれます。睡眠戦略、補給計画、装備の選択から、レース中の判断基準まで。最高レベルのパフォーマンスで完走するためのTJARのノウハウとその意図が、具体的に語られた書籍は他にありません。土井選手の後に続こうとする選手への貴重なガイドとして読み継がれることになるに違いありません。
アスリートからリーダーへ ─ 家庭と競技の両立に悩む人への示唆
学生時代はバスケットボール選手、チームのキャプテンとしてスポーツに打ち込んだ土井選手は、大学卒業後は消防職員となりスポーツから一旦離れます。少年時代に両親とともに親しんだ登山と体力づくりのためのランニングに取り組むようになったのは、30歳になってから。その後、わずか数年でトレイルランニングで頭角を現すようになる急激な成長は、単なるフィジカルな才能だけでは説明がつきません。本書からは、土井選手が国内外のレースでの安定した活躍を重ねながら、単なる勝利追求から、自らの走りが持つ意味を深く内省する姿へと変化していく様子を読み取ることができます。
家庭生活と競技や趣味の両立に試行錯誤する人にとって、本書で描かれる土井選手と家族の関係性は多くの示唆を与えることでしょう。公務員として働きながら世界レベルの競技に挑戦することの困難、家族の理解と支援の重要性、そして美談の背後で時には生じる葛藤。これらの現実的な課題と向き合いながら、最高のパフォーマンスを発揮するに至った過程は、同様の悩みを抱える多くの人の心に響くに違いありません。
今年に入って、土井選手は同世代のライバルであり仲間である小原将寿選手、大瀬和文選手とともにトレイルランニング世界選手権の日本代表選手へのサポートの必要性を訴える行動を起こしました。さらに日本代表を応援するためのイベントを自ら企画、実行しています。本書は、そうした彼の行動の根底にある「日本のトレイルランニング界をよくしたい」という強い意志が、いつ、どのように芽生えていったのかを丁寧に描き出しています。
多角的な取材が織りなす人間関係の妙
著者の千葉弓子氏が取材したのは土井選手本人だけではありません。彼の成長を見守ってきた両親、苦楽を共にする妻と子供たち、そして小原、大瀬の両選手やアルプスへ一緒に通った福井哲也といったランナーたちについても、それぞれの人物像を丁寧に彫り起こしたうえで、言葉を引き出しています。こうした周囲の人物への丹念なインタビューが、土井陵という人間像を立体的にすることに貢献しています。
印象深いのは、読者は土井選手自身の言葉を追いながら、同時に周囲の人々の視点からも彼の変化を確認できること。この多層的な構成により、一人の人間の成長を多面的に描き出すことに成功しています。
特に、彼の挑戦を支える家族の存在と、その裏にあった葛藤の描写は胸を打つものがあります。偉大なアスリートの栄光は、本人の努力だけでなく、時に家族の犠牲や苦悩の上に成り立つ。その光と影の両面を誠実に描くことで、本書は一人のアスリートが持つ「神」という表層的なイメージの奥にある、生身の人間の物語として深い共感を呼ぶのです
幅広い読者に響く普遍的メッセージ
『山岳ランナー 土井陵 王者の称号』は、土井陵というアスリートのファンにとっては待望の一冊であり、トップアスリートの思考法を学びたいランナーには実践的な指南書ともなるでしょう。TJARという日本最高峰のレースに関心を持つ人には、その神秘のベールを剥がす貴重な記録です。家庭生活と競技・趣味の両立に悩む人には、どのように向き合うべきか示唆をもたらしてくれます。
近年もアスリートとして国内外で新たなフロンティアを求め、挑戦を続ける土井選手は、地元の関西で主宰する100マイルイベント「BAMBI 100」のように、次世代への橋渡し役としての活動にも力を入れています。彼がこれから成し遂げるであろう新たな挑戦がどのようなものになるのか、その目撃者になりたいと、読者は願うことになるでしょう。
千葉弓子氏の手によって、この物語の「続編」が書かれる日を心待ちにしたいと思います。
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- 書名: 山岳ランナー 土井陵 王者の称号
- 著者: 千葉弓子
- 出版社: 平凡社
- 発売日: 2025年6月11日














