【編者より・UTMBウィーク最終日の8月31日日曜日、シャモニー Chamonix の空は快晴に恵まれました。レースの興奮が冷めやらぬ中、恒例の「チャンピオンズウォーク Champions Walk」が開催されました。ライブ配信のMCの一人として今年のHOKA UTMB Mont-Blancを見届けたマルタン・ガフリ Martin Gaffuri 氏が聞き手となって、UTMBワールドシリーズファイナルの三つのレースのチャンピオンたちとともに、ここまでの歩みと今回の経験を振り返りました。そのチャンピオンたちとの会話を紹介します。】
世界最高峰のトレイルランニングレース、UTMB Mont-Blancの100マイルカテゴリー、UTMB。177km、累積標高10,000mの過酷なコースで行われた2025年大会の男子カテゴリーで、イギリスのトム・エヴァンス Tom Evans (GBR) が19時間18分58秒という驚異的なタイムで初優勝を飾りました。過去2度のDNFを経験した彼が、いかにして悪天候の難コンディションを克服し、完璧なレースを実現したのか。レース後のインタビューで語られた、その勝利の裏側にあるストーリーをお届けします。
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(Photo © UTMB® / Marta Baccardit)
賭けから始まったトレイルランニングへの道
元イギリス陸軍の軍人という異色の経歴を持つトム・エヴァンス Tom Evans (GBR)。彼のトレイルランニングキャリアの始まりは、意外にも友人との「賭け」でした。
「軍にいた頃はラグビーに打ち込んでいましたが、怪我のリスクが高すぎて断念しました。何か新しい挑戦を探していたんです」と彼は語ります。トライアスロンにも挑戦しましたが、「ひどい水泳選手」だったため、あまり好きになれなかったとのこと。しかし、アイアンマン・ウェールズでは年齢別グループで3位に入り、プロを含むマラソンパートで2番目に速いタイムを記録したことから、「もしかしたらランニングの方が向いているかもしれない」と感じたといいます。
そんな中、2016年に軍の友人がサハラ砂漠マラソン Marathon des Sables を完走したことを聞き、「彼らより良い順位でゴールできる」と賭けたことが、彼の人生を大きく変えるきっかけとなりました。
それまで10km以上のレース経験もなかったにもかかわらず、2017年のサハラ砂漠マラソンでいきなり3位入賞。彼はこのイベントのトレーニングについて、「暑く、砂が多く、マルチステージレースで、食料を自分で運び、テントで寝るという、イベントの要求に応じたトレーニングを本当に楽しんだ」と振り返ります。当時のトレーニングは「今ほどプロフェッショナルではなかった」とも語っています。
このマラソン・デ・サーブルでの3位入賞と、同年のアイガー・ウルトラトレイル Eiger Ultra Trail 100kでの4位入賞により、彼はウルトラ・ワールドツアーシリーズで総合3位となり、UTMBのレース、特にCCCへの出場権を獲得しました。レース10日前に急遽出場が決まったCCCでは、ゼッケンに手書きで名前が書かれるほどでしたが、そこで4位と、その才能を一気に開花させます。
「このスポーツに、もっと打ち込めるかもしれない」。そう確信した彼は、軍でのフルタイム勤務とトレーニングを両立させる日々を送ります。軍での仕事は「非常に多岐にわたり、一貫性が必要なエリートスポーツには向いていなかった」と語っています。そして2018年には、トレイルランニング世界選手権(ペニャゴロサ)で3位に入賞。その後、CCCで念願の初優勝を飾ると、その翌日、イギリス陸軍に退役届を提出。プロアスリートとしての道を歩み始めました。
勝利を支えた「チーム・エヴァンス」という名の最強布陣
今回のUTMB®優勝の背景には、彼が「ハイパフォーマンスのサイクリングチームから着想を得た」と語る、専門家集団による強力なサポート体制があったといい、そのメンバーについて話しました。
- パフォーマンスディレクター: ジョセフ・メゾレ Joseph Messolet がトレーニング全体の運営を監督し、シャモニーに居住。
- ヘッドコーチ: スコット・ジョンストン Scott Johnston がジョセフと協力し、適切な目標のために適切なトレーニングを行うプログラムを作成。
- 栄養士: ポール・ブース Paul Booth がラボでのテストと実地検証を組み合わせ、最適な栄養戦略を構築。ラボでのテストは「現実世界の条件ではない」ため、現地での検証が重要だったといいます。
- 神経科学者/スポーツ心理学者: デイビッド・スピンドラー David Spindler がトレーニング前、中、後、そして日常生活における脳内の適切な化学物質の生成をサポートし、日々のメンタルケアを担当。彼は「物事の考え方を再構築する」というシンプルなことを行い、ほぼ毎日トムと話しているとのこと。
さらに、専属のマッサージセラピストであるベン・ヒギンズ Ben Higgins を帯同させ、レース前の2ヶ月間は妻のフィービーさんと子供、そしてデイビッドと共にシャモニー Chamonix 近郊のアルゼンチエール Argentière に滞在。「第二の故郷、ホームアドバンテージを作りたかった」という彼の言葉通り、心身ともに万全の状態でレースに臨むための環境を徹底的に作り上げました。
「トレーニングのデータや数字だけでは限界があります。家にいる時間の方がトレイルにいる時間より長い。だからこそ、常に幸せでいられる家庭環境を整えることが、僕にとっては非常に重要でした」と彼は語り、横殴りの雪が降るような過酷な天候下でも、精神的に満たされていれば「何も精神を打ち砕くことはできない」と付け加えました。
2度のDNFから学んだ「完璧なレースマネジメント」
過去2度のDNFは、彼にとって失敗ではなく「学びの機会」でした。彼は「ウルトラランニングにおける問題の99%は、特にエリート選手の場合、速く走りすぎたために起こる」と分析し、序盤から自分をケアすることの重要性を強調します。特に今回は、レース前から雪や雨といった悪天候が予報されており、その経験が大きく活かされました。
「レースの10日ほど前に『What if(もしこうなったら)』というエクササイズをしました。『雨が止んだらどうするか?』『補給が難しくなったらどうするか?』といったあらゆる事態を想定し、対応策を書き出しておくんです」といいます。
この周到な準備により、彼はレース中に冷静な判断を下し続けることができました。例えば、補給ジェルは手がかじかんでいても開けやすいように、予めフラスクに移し替えておく(通常のジェル3個分、120gの炭水化物)。夜間セクションでは、手袋をしていても飲みやすいように、大きなボトルに入ったジェルや液体の炭水化物に変更しました。天候の変化に応じて、ジャケットの着脱を実に20回も繰り返したといいます。
「一つ一つの正しい判断を積み重ねることで、『自分はレースをコントロールできている』という自信が生まれます。それがポジティブな脳内化学物質を放出し、さらに良いパフォーマンスにつながるんです」
夜間の厳しいセクションを乗り越え、シャンペ・ラック Champé-Lac に到達した時点で、彼はすでにリードを築いていました。多くの選手が夜間の疲労と消耗でシャンペ・ラックでリタイアする中、彼は冷静さを保ちました。そこからも決して焦ることなく、「プッシュすべき時はプッシュし、そうでない時はしない」というマントラを胸に、冷静にレースを進めました。シャンペ・ラック以降も3つの厳しい登りがあり、疲労困憊の体には非常に厳しかったが、「自分をケアし続ける」ことに集中。特に登りでは腕を使うことを重視し、「腕が脚と同じくらい疲れている」と語るほどでした。エイドステーションが比較的近く(約2時間ごと)に配置されていたことも、レースを細かく区切るのに役立ったといいます。
なお、スタート前から土砂崩れの影響でレ・ズージュへ向かうルートが迂回路に変更されたのに加え、スタート後に悪天候のためピラミッド・カルケールのテクニカルな山岳区間がカットされました。これにより距離と登りが増えましたが、全体としてはより速いコースになったとトムは分析しています。
「家族の存在が全て」—感動のフィニッシュ
19時間40分34秒。2度のDNFの雪辱を果たす、圧倒的な勝利。シャモニーのフィニッシュラインで彼を待っていたのは、パートナーのソフィーさんと愛娘のフィービーちゃんでした。娘を抱きしめ、喜びを分かち合う姿は、多くの観客の胸を打ちました。
「レースで一番好きな瞬間は、この喜びを分かち合えることです。アスリートがレースに出るために、友人や家族は多くのことを犠牲にしています。最も大切な人々と成功を分かち合えること、それが僕にとっての全てです」と彼は語り、「グラン・コル・フェレでの苦しい登りは覚えていないが、ソフィーとフィービーとのフィニッシュラインは覚えているだろう」と付け加えました。
彼は、今回のレースを「2023年のウェスタンステイツと非常によく似た、非常によく計画され、非常によく実行されたパフォーマンス」と表現し、「焦りもストレスもプレッシャーもなく、やりたいことをやりたい時にやるだけだった」と振り返ります。
また、同じくUTMB®で複数回の挑戦の末に優勝したジム・ウォルムズレー Jim Walmsley (USA)の例を挙げ、「成功には時間がかかることもある。失敗はただの学びであり、経験という財産。その経験が、最終的な成果をさらに価値あるものにしてくれる」と語りました。ジムもまた、初年度は5位と好成績を収めたものの、その後2度のDNFを経験し、4位を経て優勝に至った経緯に触れ、「生まれつき山に慣れていない人にとっては、時間がかかるものだ」と述べました。
周到な準備、それを支えるチームの力、そして家族への想い。その全てが完璧に噛み合った時、トム・エヴァンス Tom Evans (GBR)はUTMBの頂点に立ちました。2度の苦杯を乗り越えて掴んだ栄光は、彼をさらなる高みへと導くことでしょう。次にトムがどんな挑戦をするのか、期待したいと思います。
https://www.youtube.com/live/tmqTlOaSkkg














