スペインのトレイルランニング専門メディア「Carrerasdemontana.com」の編集長であり、筆者の10年来の友人でもある セルヒオ・マヤヨ Sergio Mayayo (ESP) が、今から10年後、2035年のトレイルランニング界を予測する記事「Trail Running Future: Eleven Bets for 2035」を公開しました。
マヤヨ氏は単なるジャーナリストにとどまらず、WMRA(世界マウンテンランニング協会)の評議員(Council Member)を務めるなど、競技団体の内側からもこのスポーツの発展に尽力してきました。そんな彼が同テーマについて自身のポッドキャスト番組でも詳細に語っており、記事には書かれなかった生々しいエピソードや、異なる切り口での予測も披露しています。
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2025年の現在、トレイルランニングは数十億ドル規模の巨大なスポーツエコシステムへと成長しました。では、さらに10年後の未来、私たちの愛するこのスポーツはどう変貌しているのでしょうか? マヤヨ氏が掲げる「11の賭け(予測)」を、ポッドキャストでの発言内容を加えて補足・深掘りしながら紹介します。
(写真はカンフランクでの世界選手権のプレス責任者としてライフ配信に出演したセルヒオ・マヤヨ Sergio Mayayo氏<写真は本人の提供>)
マヤヨ氏が描く「2035年のシナリオ」:11の賭け
1. 市場の拡大は止まらない:850万人を超えて
「ブームは終わった」と語る人もいますが、データは嘘をつきません。ポッドキャストで紹介されたデータによると、世界のトレイルランナー数は2010年の120万人から2022年には850万人超へと激増しました(年平均成長率12%)。
特にアジア太平洋地域の伸びが著しく、マヤヨ氏は中国、日本、韓国がその牽引役であると言及しています。中産階級の拡大と自然志向の高まりにより、2035年に向けてこの数字はさらに右肩上がりを続けるでしょう。
マヤヨ氏は日本と韓国を挙げていますが、DogsorCaravanの現場感覚としては、アジアの成長エンジンの中心は中国に加え、タイ、ベトナム、マレーシア、インドネシア、フィリピンといった東南アジア諸国にあると感じています。これらの国々では、経済成長に伴う中間層の拡大とともにトレイルランニングが爆発的なブームを迎えており、大会の規模や熱気という点では、すでに成熟した日本市場を凌駕するほどの勢いを見せています。
2. よりオープンで多様なスポーツへ
かつて、トレイルランニング(特に米国のウルトラ)は「裕福な白人の中年男性」のスポーツでした。マヤヨ氏は2010年にレッドヴィル100(Leadville 100)に参加した際、「スタートラインに並ぶのは白人ばかり街のカフェやバーで彼らに食事を提供する人々の大半はヒスパニック系だった」という社会構造のコントラストにショックを受けたと語ります。
しかし、これからは違います。若者層の流入、そして高齢者層の定着が進んでいます。マヤヨ氏は世界マスターズ選手権で80歳以上のカテゴリー新設を求める声があったことに触れ、ランナー層が年齢、人種、職業を問わず多様化し、真に開かれたスポーツになると予測します。
3. エリート層の多国籍化「レインボー・エリート」
2010年、国際レースの勝者の70%は西ヨーロッパ勢でした。しかし2024年にはその割合は45%以下に低下しています。ケニアやウガンダなどのアフリカ勢だけでなく、アジアやラテンアメリカ勢の台頭が著しいからです。
マヤヨ氏はポッドキャストで、「世界のエリートは虹色(Arcoíris)になる」と表現しました。かつては用具や遠征費へのアクセスが欧米の富裕層に限られていましたが、今や地理的な障壁は取り払われました。ケニアやモロッコの農村部の若者が、その才能と努力だけで世界的なプロフェッショナルとして成功できる道が開かれたことを、彼は「誰にとっても素晴らしいこと(Es maravilloso)」と心から歓迎しています。
4. 女子エリートの躍進
女性ランナーの参加比率は2005年の15%から2024年には38%まで急増しました。しかし量的な拡大以上に、マヤヨ氏が注目するのは「質」の劇的な向上です。ウルトラ距離における男女のタイム差は、2010年の14%から2023年には9%まで縮まっています。
これは一部の例外による現象ではありません。コートニー・ドウォルター Courtney Dauwalter (USA) がTransgrancanaria、UTMB、Hardrockといった世界最高峰のレースで総合トップ5を争う常連となっていることは周知の事実です。
さらにマヤヨ氏は、2025年カンフラン・マラソンでのトベ・アレクサンダーソン Tove Alexandersson (SWE) の走りを「歴史的」と称賛します。彼女は転倒で頭部を8針縫う大怪我を負い、15分間の治療を受けながらも、並み居る男子エリート選手を抜き去り、総合2位でゴールしました。コートニーやトベのような「超人」の出現はもはや特異点ではなく、女子選手全体のパフォーマンスが、男子トップ層を脅かす領域に達しつつあることの証明なのです。
5. 世界選手権が最高峰の舞台に
私的な営利団体(UTMBグループなど)と、ワールドアスティクス(国際陸連)との主導権争いは、最終的に陸連主導の体制へと収束していくでしょう。マヤヨ氏は、2025年カンフラン世界選手権(WMTRC)の成功を例に挙げ、「世界選手権」こそが競技の頂点となると予測します。その背景には構造的な必然性があります。
- 公的資金へのアクセス: ウガンダやアルゼンチンなど多くの国、特に新興国の選手にとって、連盟を通じて「国の代表」になることは、遠征費や公的支援を得るための唯一の生命線です。
- 全カテゴリーを網羅: 民間のシリーズ戦と異なり、WAの世界選手権だけが「バーティカル」「クラシック」「マラソン」「ウルトラ」の主要4カテゴリーすべてにおいて世界一を決める場を提供しています。
6. オリンピック競技化の実現:魂を売るのか?
2035年にはオリンピック種目になっていることは確実だ、とマヤヨ氏はいいます。2030年のフランスアルプス冬季五輪での採用議論など、その動きは加速しています。
ポッドキャストでマヤヨ氏は、MTBやスポーツクライミングが五輪化によって本来の要素を失い、人工的な周回コースで行われる『フランケンシュタイン』のような競技に変質してしまった現状を嘆いています。彼はトレイルランニングも同様に、『世界(五輪のメダル)を得るために、魂(トレイルらしさ)を失う』道を歩むことへの強い懸念を示しつつも、その流れは不可避であると見ています。
一般的に夏期のスポーツと思われがちなトレイルランニング(およびクロスカントリー)が冬季五輪の候補となっているとマヤヨ氏がみる背景には、世界陸連(World Athletics)のセバスチャン・コー会長による強力な後押しがあるようです。コー氏は、雪上競技の伝統を持たないアフリカ諸国の参加を促し、冬季五輪の多様性を高める手段として、ランニング種目の採用を提唱しています。 参考: Cross-country running and cyclocross could be added to Winter Olympics by 2030 (The Guardian)
7. 4つの主要カテゴリーの維持
「ショートトレイル」「ロングトレイル」といった商業的な呼称にかかわらず、マヤヨ氏は2035年もトレイルランニングの本質的なカテゴリーは 「バーティカル」「クラシック」「マラソン」「ウルトラ」 の4つであり続けると予測します。
マヤヨ氏はポッドキャストで、過去数年間の「ウルトラへの抑制の効かない情熱」がようやく落ち着き、ランナーたちが「4kmで1000m登ることの美しさ」や短い距離の激しさを再評価し始めたと分析します。
実際、2018年から2024年のITRAデータを紐解くと、ウルトラの参加者成長率が10%であるのに対し、マラソン(+13%)やクラシック(+11%)も同様かそれ以上のペースで成長しています。「メディアは一番長いレースを『王様』として扱いたがるが、ウルトラが他のカテゴリーを飲み込むことはない」と彼は断言し、それぞれが異なる才能を要する独立した競技として共存していく未来を描いています。
8. コースの「高速化」と「簡易化」
テレビ中継やマス層への普及に伴い、コースはより「走りやすく」なります。かつてのような岩場や危険な尾根といったテクニカルなセクションは減少し、グラベルや林道が主体のコースが増加するでしょう。
マヤヨ氏はポッドキャストで、「2019年から2024年に新設された欧州のレースの60%以上は、累積標高差が1000m未満だ」というデータを提示。登山バックグラウンドを持たないランナーの急増に伴い、レースは「マウンテンランニング」から「オフロード陸上競技」へとシフトしていくと分析しています。
さらにマヤヨ氏は、この背景には商業的な構造要因もあると指摘します。「主催者は300人ではなく、数千人のゼッケンを売りたいのだ」と彼は語ります。岩場や狭い尾根といったテクニカルなコースは、安全管理上、参加人数を数百人に制限せざるを得ません。対して、数千人規模のランナーを受け入れ、ビジネスとして成立させるためには、物理的に幅が広く、安全な林道やグラベルをコースに選ぶことが必須条件となります。つまり、トレイルランニングの産業化そのものが、必然的にコースの簡易化を招いているという見方を示します。
9. メディアの完全デジタル化:YouTubeが王様
2035年、紙の雑誌やアナログなテレビ放送は影響力を完全に失う、とマヤヨ氏は断言します。「Eurosportでの放送」といった権威付けは無意味になり、YouTubeやスマホでのストリーミングが王様になります。 視聴スタイルは、長時間テレビの前に座り続けるのではなく、モバイルデバイスでの遅延視聴(オンデマンド)や、SNSで流れてくる断片化されたハイライト動画(ショート動画)を消費する形が主流になります。情報の断片化が進むからこそ、情報の信頼性を担保する専門ジャーナリストの需要は高まるとマヤヨ氏は強調します。
10. ドーピング管理の厳格化
お金と名誉が大きくなれば、不正の誘惑も増します。バイオロジカルパスポートの導入が義務付けられ、抜き打ち検査が常態化します。
ポッドキャストで明かされた衝撃的な事実は、2025年カンフラン世界選手権において「医療用建物の半分は怪我の手当用だったが、もう半分はドーピング検査室だった」こと。
特にコストの問題は深刻です。マヤヨ氏は、スペインで男女トップ3名の尿検査を行うだけで、WADA認定ラボを通すために2,000〜3,000ユーロ(現在のレートで約35万〜50万円)もの費用がかかる現状を明かしました。彼はWMRAの役員としてこの高額な価格設定を是正しようと試みましたが、「失敗した」と語っています。クリーンなスポーツであることを証明するための経済的負担は現状でも極めて重く、今後プロ化が進む中で、主催者にとってさらに避けて通れない大きな課題となるでしょう。
11. 「賭け(ベッティング)」の到来
リストの最後を飾るのは、予測としての「賭け」ではなく、文字通りの「ギャンブル(ベッティング)」についてです。「我々スペイン人はキニエラ(サッカーくじ)で育った」とマヤヨ氏は語ります。イギリスではすでにロンドンマラソンなどが賭けの対象となっており、ライブトラッキングとランキングが整備されたトレイルランニングにも、スポーツベッティングの波が押し寄せるのは時間の問題だと予測します。
彼自身、すでにブックメーカーからの接触を受けていることを明かしました。これはスポーツに資金をもたらす一方で、八百長などのインテグリティ(高潔さ)に関わる深刻なリスクを持ち込む「パンドラの箱」となる可能性があります。
DogsorCaravanの視点:未来は明るいことばかりではないが、着実に進んでいく
WMRAの役員として、理想と現実の狭間で葛藤してきたマヤヨ氏だからこそ、その予測は単なる希望的観測にとどまらず、ドーピングや「賭け」、オリンピックによる変質といった不都合な真実にも目を向けています。
長年の友人として折に触れてトレイルランニングの現状や未来を彼と語り合ってきた筆者にとっても、コースの「簡易化」や「スポーツベッティング」への言及は、トレイルランニングの純粋な山岳スポーツとしての魅力を愛する者として、複雑な思いを抱かざるを得ない未来が含まれていると感じます。
しかし、変化は確実に訪れます。2035年、私たちはスマートフォンの画面で賭けのオッズを見ながら、オリンピックのトレイルレースを観戦しているのでしょうか。それとも、変わらぬ山の静けさを求めて、人のいないトレイルを走っているのでしょうか。
Source:
- Article: Trail running futuro: ¿Como será en 2035? Once apuestas, por Mayayo
- Podcast: Trail running futuro 2035 – Once apuestas, por Mayayo (Radio Trail)














