キリアン・ジョルネが問う2026年のトレイルランニング:『オリンピック』『カネ』そして『失われる野生』

先月、現代のトレイルランニング界のカリスマ、キリアン・ジョルネ Kilian Jornet が公開した一編の論考。これが今、世界中のマウンテンアスリートの間で静かな、しかし深い波紋を広げています。『Trail Running 2026, where are we, where are we going.』と題されたその記事で、彼はトレイルランニングの現状と未来について、驚くほど冷静に、そして鋭く切り込みました。オリンピックを目指すことの功罪、トップ選手の経済的リアリズム、そして何より、私たちが愛するこのスポーツが急速に失いつつある重要な要素について。発表から少し時間が経ちましたが、DogsorCaravanでもこの極めて重要なテキストを読み解いていきたいと思います。

(画像はキリアンが憂慮する「失われる野生(手前の岩稜)」と「規格化された競技の未来(奥のスタジアム)」の対比イメージ。<AI生成画像>)

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オリンピック・ドリームの代償:トレイルは「周回コース」になるか

キリアンがまず言及したのは、長年議論されてきた「トレイルランニングのオリンピック種目化」についてです。彼は自身のルーツであるスキーモ(山岳スキー)が五輪種目として採用されるまでの20年間の変遷を引き合いに出し、五輪入りが必ずしも競技人口の増加やファン層の拡大を意味しないと指摘しています。むしろ、IOC(国際オリンピック委員会)が好むのは、管理されたルールとテレビ中継に適したフォーマットであるという現実があるからです。

もしトレイルランニングが五輪種目になれば、どうなるでしょうか。キリアンはこの点について、『オリンピック・トレイルのビジョンは、ポイント・トゥ・ポイントのレースよりも、むしろマルチラップの周回コースを好む傾向にある(the “Olympic Trail” vision favors a multi-lap loop)』と述べています。そこでは舗装路の比率が高まり、自然の不確実性は排除されていきます。それはもはや、私たちが知る「旅」としてのトレイルランニングではなく、彼が懸念するように『不整地を走る長距離(あるいは超長距離)クロスカントリーレース(long (or very long) cross country race)』と呼ぶべき別の競技に変貌してしまうかもしれません。彼は、競技のアイデンティティそのものが揺らぐ可能性について警鐘を鳴らしています。

エリートの財布と業界のリアル

次に彼が触れたのは、トップアスリートを取り巻く経済的な現実です。SNSなどを通じて華やかに見えるエリート選手たちですが、その内実はサッカーやバスケットボールのようなメジャースポーツとは根本的に異なります。チケット収入という巨大な財源を持たない現状について、キリアンは『トレイルランニングはスタジアムが公道である(where the “stadium” is a public road)』スポーツであり、チケット収入が存在しない構造的な違いを指摘しています。

このため、選手の収入源は賞金よりもメーカーからのスポンサーシップに依存せざるを得ません。キリアンはこの構造が、アスリートに対して競技パフォーマンス以上のインフルエンサー化を強いている現状を浮き彫りにしています。純粋に山を走る能力よりも、SNSでの発信力やマーケティング価値が優先されかねない環境は、競技の健全な発展にとって必ずしもポジティブな側面ばかりではありません。これは、業界全体が直視すべき構造的な課題であると言えるでしょう。

失われた第3の軸、「Technicality(技術度)」

そして、この論考の中でなるほどと頷かされたのが「Technicality(技術的難易度)」に関する指摘です。現在、ITRAやUTMBのインデックスをはじめ、トレイルランニングの難易度は主に「距離」と「累積標高」という二つの数値軸で語られることがほとんどです。

しかしキリアンは現在の指標について、『これらはバイリニア(2軸)であり、距離と獲得標高だけをカウントしているため、技術的な側面は多かれ少なかれ失われている(all those index are bilinear… so all the technical aspects are more or less loss)』と分析しています。整備された林道を走る100マイルと、岩稜帯を越え、藪を漕ぐ100マイルは、数値上は同じスペックであっても、彼によれば『トレイルランニングは本来、距離と獲得標高に加えて、技術度(Technicality)もある3軸のアクティビティだ(is a 3 linear activity)』ということです。

しかし、数値を指標化しやすくするため、あるいは参加者の完走率と安全性を高めるために、近年のレースコースは徐々に「マイルド化」する傾向にあります。危険とされる岩場はカットされ、テクニカルなセクションは迂回されてしまうのです。

その結果、「山岳性(Mountainous)」や「野生(Wilderness)」といった、数値化できない豊かさが競技から静かに排除されていないでしょうか。キリアンは将来への懸念として、『もし私たちが将来、長距離(あるいは標高差のある)クロスカントリースポーツになりたくないのなら、技術的なグレーディングシステムの導入が必要だ(If we don’t want to become a long… cross country sport… the implementation of a technical grading system will be necessary)』と強く提言しています。

世界のコミュニティはどう反応したか

このキリアンの論考は、公開されるやいなや世界のトレイルランニングコミュニティで大きな反響を呼びました。ブログのコメント欄やSNSには、彼のアスリートとしての実績だけでなく、一人の「マウンテニア(登山家)」としての深い洞察を称賛する声が数多く寄せられています。

特に多くの共感を集めたのは、競技の規格化に対する懸念です。「トライアスロン化(triathlonisation)」という言葉を用い、レースフォーマットの標準化や参加費の高騰、ロジスティクスの肥大化によって、トレイルランニングが「体験」ではなく「商品」になりつつある現状を憂う意見が見られました。ある読者は、「山を愛することと、山を守ることは自動的には結びつかない」と述べ、キリアンが指摘した「管理上の持続可能性」と「真の環境への敬意」の違いを支持しています。

また、競技の多様性についても議論が活発です。キリアンの言う「技術的難易度」に関連して「キリアンがいつバークレー・マラソンズ(Barkley Marathons)に挑戦するのか興味がある」とのコメントには、既存の枠組みに収まらない極端なフォーマットへの憧れ、関心が示されています。さらに、近年急増しているバックヤードウルトラなど、既存の枠組みに収まらないフォーマットが大きな注目を集めるようになったことも、このスポーツの精神性をどう担保していくのか、という文脈の中で関心を集めていると言えるでしょう。

キリアンの言葉は、エリート層だけの問題ではなく、週末に山に入る私たち一般ランナーが感じていた漠然とした感覚を、鮮やかに言語化しています。

Analyst View: 日本のトレイルから考える

翻って、日本のトレイルランニングシーンに目を向けてみたいと思います。日本にはTJAR(トランスジャパンアルプスレース)やハセツネCUP(日本山岳耐久レース)のように、依然としてカルト的な人気や権威を誇るレースが存在します。なぜ私たちはそれらに惹かれるのでしょうか。それは、それらのレースが圧倒的に山岳要素において難易度が高く、管理されすぎない「理不尽な自然」が色濃く残されているからではないでしょうか。

しかし、キリアンの警鐘は決して遠い欧州だけの話ではありません。私たちの地元の里山でも、トレイルが「走りやすく」なりすぎていないでしょうか。「タイムが出るコース」を無意識に求めすぎていないでしょうか。

これからの5年、6年というスパンで、私たちコミュニティは大きな問いを突きつけられることになるでしょう。「自然の中での冒険という純粋な体験」と、オリンピック種目化に見られるような「管理され標準化された競技」。この対極にある二つのスタイルを、一つのスポーツとして受容し、共存させることができるのかという問いです。

もし私たちがその多様性を受け入れることができるのだとすれば、その鍵を握るのは「伝える力」ではないでしょうか。数値やリザルトだけでなく、そこにある自然の息吹、アスリートの葛藤、そしてコミュニティの熱量をストーリーとして共有する。そうした役割を担うメディアやクリエイターの存在が、かつてないほど重要になってくるはずです。

「トレイルランニングは、自然の中での冒険である」。

2026年という未来に向かう今こそ、私たちはこの原点に、もう一度立ち返る時期に来ているのかもしれません。便利さと引き換えに失ってはならないものが、そこにはあるはずです。

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