2026年2月、日本のトレイルランニングシーンに一石を投じるプレスリリースが発表されました。群馬県で開催されている「上州武尊山スカイビュートレイル」が、2026年大会からコンセプトを「High Mountain Adventure(ハイマウンテン・アドベンチャー)」へと刷新し、レースの名称を「ハイマウンテンレース HOTAKA(138km)」および「TONE(77km)」へ変更するというものです。
コースそのものを大きく変えるわけではない中、なぜあえて「距離」の表記を外し「ハイマウンテン」という言葉を冠したのか。その背景には、近年加速するトレイルランニングの「スポーツ化・高速化」に対するリスペクトと、それに伴って薄れがちな「山岳での冒険(Adventure)」の価値を再定義しようとする、主催者としての強い思いがありました。
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大会実行委員会のディレクターであり、日本トレイルランニング協会(JTRA)の理事として世界の潮流も熟知する岸正夫さんにお話を伺いました。
(この記事は以下のポッドキャストでのインタビューを再構成したものです。)
「100キロ」が特別な存在ではなくなった時代に
岩佐: 2026年大会から「ハイマウンテンアドベンチャー」というコンセプトを打ち出し、レース名も「ハイマウンテンレース」とされました。コミュニティでも良い方向での反響が大きいと感じていますが、改めてこのコンセプト刷新の背景について教えてください。
岸: なぜ名前を変えたのかというところからお話しします。今回、変えたかったのはコースそのものではなく、「焦点(ピント)」なんです。上州武尊山スカイビュートレイルとしてコース設定は変えていませんが、これまでは「130」や「80」といった距離で種目を表していました。しかし、正直に言って今の時代、100キロ級の大会というのは以前ほど特別な存在ではなくなってきていると思いませんか?
岩佐: 確かに、スカイビュートレイルは前身の「山田昇杯」から数えれば日本のトレイルランニングの先駆け的な存在ですが、今や国内外で100キロ、100マイルのレースは数多く開催されていますね。
岸: そうですよね。だからこそ、「この大会は何を走るのか」「どんな山を舞台にしているのか」を、きちんとお示しするべきだと考えました。
私たちのコースは、序盤の41キロ地点までに剣ヶ峰山、そして日本百名山の上州武尊山という2つの2000m級の山を越えます。一気に武尊山まで登り、そこからテクニカルな下りを駆け下り、後半はスキー場エリアのアップダウンや林道、舗装路と非常に展開が幅広い。
このコースを俯瞰したときに、これは単に「距離の長いレース」ではなく、「2000m級の高山帯を含む山岳コースそのもの」が大会のコアになるのだと気づいたんです。
岩佐: それで距離の数字ではなく、「HOTAKA」と「TONE」という名称にしたのですね。
岸: はい。「HOTAKA」はこの大会の象徴である上州武尊山を指しています。武尊山は昔から山岳信仰の霊場であり、山頂付近には1850年頃に建てられたヤマトタケルの像があります。「TONE」はこの大会が根を張っている群馬県利根郡、利根川源流域の山々を象徴しています。
距離ではなく、山と環境、そしてこの地域を「主語」としたかった。レースではあるけれど、自然と向き合い、自分で判断し、それを引き受ける時間がある。速さだけでは終わらない、山との関係性も含んだ体験ができる。それが「High Mountain Adventure」という言葉に込めた思いです。
競技の「洗練」と、山が持つ「影響力」のバランス
岩佐: 岸さんはJTRA理事として、世界マウンテン&トレイルランニング選手権(WMTRC)など、世界のトップシーンを現場で見てこられました。世界のトレイルランニングの進化と、今回の「ハイマウンテン」の提唱には繋がりがあるのでしょうか?
岸: 世界のトレイルランニングは確実に高速化しています。世界選手権の上位には陸上競技やクロスカントリー出身の選手も多く、トレーニングや補給も科学的になり、チーム体制も大きくなっている。それは素晴らしい進化です。
ただ、速さが価値の中心になりすぎると、山そのものが単なる「背景」になってしまい、存在感が薄れてしまう瞬間があるように感じます。競技としての洗練さと、自然・山の影響力を競技の中にどれだけ残すか。そのバランスを取ることが、これから問われるのだと思っています。
岩佐: 確かに、近年は「フラットなコースで速い選手がトレイルでも速い」という傾向が強まり、山の力、いわゆる「山力(やまりょく)」のようなものを積極的に評価するストーリーが希薄になっている気がします。
岸: 先日の世界選手権のコース(スペイン・ピレネー)も素晴らしいロケーションとサーフェスでしたが、その山の厳しさや素晴らしさは画面からはなかなか伝わりきりません。
私たちが「ハイマウンテン」と言うとき、それは単に標高が高いという意味だけではなく、「自然の影響力が競技中にどれだけ強く残っている環境なのか」という意味です。2000m級の山では、気温、雨、視界不良など、天候次第でレースの性質が全く変わります。環境をどう読むか、自分の限界をどう判断するか。速さよりも山との関係性が問われる部分が、もっと前面に出てきてもいい。ハイマウンテンレースは、「競技の顔をした山岳体験」だと捉えています。
参加者に求めるのは「自立した判断力」と「装備の運用力」
岩佐: その「山岳体験」に挑む参加者には、走力だけでなく、山の知識やテクニックが求められますね。初めてこのレベルの山岳コースに挑戦するランナーへ、どのようなアドバイスがありますか?
岸: 今日の話題の核心になりますが、やはり「速さだけでは足りない」ということです。この大会では、「判断できる人」であってほしいという強い思いがあります。天候が変わったときにどうするのか、続けるのか、やめるのか。その判断を自分で引き受けられることをしっかり求めたい。
例えば、スカイビュートレイルのA7エイド(約110km地点)では、そこで競技を終えるという選択ができるルールを作っています。そこまで走ってきたことをきちんと評価し、その先へ続行するかどうかも自分で決めてもらう。そういう意味でも「判断するレース」なんです。
岩佐: 必携装備に関する意識も重要になりますね。誰かと一緒に走っていると、つい「これくらいでいいだろう」とマージンを削ってしまいがちです。
岸: 大会に来ていただく方々を見ても、必携装備を持っているものの「何のために使うのか理解していない」「使い方がわからない」というケースを見受けます。GPSマップをスマホや時計に入れて携帯することを義務付けていますが、いざという時に地図アプリを開けないようでは意味がありません。なぜそれを持たせているのか、そこまで考えるのが「自立したランナー」だと思います。環境に対応できる力とは、そういう装備の運用力や判断力も含めてのことです。
帰還の歓喜を演出するフィニッシュ
岩佐: 厳しい自然と向き合い、自らの判断で走り抜く。まさにアドベンチャーですね。そうした過酷な旅を終えた選手を迎える大会の演出についても、変化があるのでしょうか。
岸: 大会の見せ方、演出については昨年から取り組みを始めています。ほとんどの選手は夜間や早朝の暗い時間帯にフィニッシュしてきます。UTMBのように派手派手にはできないかもしれませんが、暗闇から帰還した選手がホッとするような、そして賑やかに迎え入れられるような照明や演出は、これからもしっかり作っていきたいと考えています。
岩佐: 競技の枠に収まらない山の厳しさを突きつける一方で、帰ってきた時の歓喜やホスピタリティはより温かいものになる。素晴らしいですね。今日は上州武尊山スカイビュートレイルの新しい姿について、深いお話をありがとうございました。
岩佐の視点・Analyst Note
トレイルランニングの世界では、100kmや100マイルといった「距離」がランナーのステータスや目標を定義する時代が長く続きました。しかし、ギアの進化やトレーニングの体系化、そして大会数の増加により、もはや「100マイルを完走した」という事実だけでは、そのレースがどのような体験であったかを語り尽くせなくなっているのが現状です。いわば「距離のインフレ」が起きています。
さらに、エリートシーンにおける「高速化・陸上競技化」は、トレイルランニングを洗練されたスポーツへと押し上げた一方で、不確実な自然と向き合う「泥臭い冒険」の要素をコースの背景へと追いやってしまった側面も否めません。
上州武尊山スカイビュートレイルが「距離表記の廃止」と「High Mountain Adventureの宣言」に踏み切ったことは、こうした時代の潮流に対する鮮やかなアンチテーゼであり、同時に原点回帰のメッセージです。 トレイルランナーに求められるのは、整えられたトラックを速く走るフィジカルだけでなく、変化する山の環境を読み、手持ちの装備を使いこなし、進退を自ら決断する「総合的な山岳対応力」も重要です。
SNSで切り取られる数秒の「映え」や、GPSウォッチに刻まれる「ペース」だけでは測れない、山との対話。2026年、真の自立したランナーたちがこの「ハイマウンテン」の呼びかけにどう応えるのか、注目していきたいと思います。













