ランニングを始める前には念入りにストレッチ。スポーツ中は喉が渇く前に電解質の入ったドリンクをこまめに摂る。長時間走った後は筋肉痛を防ぐためにアイシング。トレイルランナーに限らずスポーツをしている人には常識ともいえることには、科学的な裏付けがないばかりか思いがけない不利益をもたらす、としたらどうでしょうか。
本書『Good to Go 最新科学が解き明かす、リカバリーの真実』(クリスティー・アシュワンデン 著、児島修 訳、青土社)はスポーツによる疲労回復の手段としてアメリカで一般的な補給食やマッサージ、さらには赤外線サウナやクライオセラピー(全身冷却療法)、フローティング、瞑想といった最先端の疲労回復の方法を取り上げ、それらがどんな体験か、実際に有効なのか、探っていきます。
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その結果著者がたどり着いた結論は本書を読んでいただくとして、本書の編集者でトレイルランニングでも活躍する福島舞さんはそのアドバイスにそって調整した結果、今年の東京マラソンを2時間54分59秒という自己ベストで完走したそうです。
では、様々な疲労回復のための方法は意味がないのか?これについて著者はユニークなたとえ話で説明します。(本文265ページより)
ヒューストンの空港の例を挙げましょう。乗客から手荷物受取所で待つ時間が長すぎると文句を言われた空港は、荷物の輸送プロセスをスピードアップし、コンベアーベルトに荷物が到着するまでの時間を短縮しました。
しかし、顧客の不満は収まりませんでした。原因を探ったところ、ゲートから手荷物受取所までの距離が短すぎることが判明しました。顧客は飛行機から降りて荷物を受け取るまでの時間の九割を、コンベアーベルトの前で待って過ごしていたのです。そこで空港は、乗客の歩くルートを変え、手荷物受取所に到着するまでの距離をそれまでの六倍に増やしました。その結果、苦情はきれいさっぱりなりました。待ち時間自体の長さは変わっておらず、その過ごし方が変わっただけで、顧客は不満を抱かなくなったのです。つまり私たちは待つよりも、どんなものであれ何かをしているときのほうが幸せなのです。(本文265ページより)
リカバリーのための様々なアイテムには科学的根拠があるのか
スポーツ中は喉が渇いても我慢するのが当たり前だったアメフトの世界から「運動は脱水症状を引き起こす。それを避けるにはゲータレードを飲むことだ」という謳い文句で水分補給のためにスポーツドリンクを飲むことが勧められるようになったのは1960年代のこと。汗で失われた水分、塩分、エネルギー源となる炭水化物を補給できるスポーツドリンクは今や広く受け入れられました。さらに「喉に渇きを感じてからでは遅いので、時間を決めて定期的に水分を補給するべき」というアドバイスも今や市民ランナーの常識です。
しかし、この水分補給の常識の科学的根拠を探った筆者は『電解質は汗で失われますが、長時間続けて運動するような場合でも、正常な食欲に従って食事をとっていれば、失われた量に十分対処できるだけの蓄えはすでに身体にある』(46ページ)ことを知ります。普段の生活の食事や飲み物で得られた電解質の蓄えがあるから、運動中に電解質を摂る必要はないことになります。体から水分が失われても体内のホルモンの働きにより体内から血液に水分が戻されるという働きがある一方、予防として水分を補給することで水分の過剰補給となって低ナトリウム血症に陥るリスクがある、というのです。
こうして、スポーツ中の水分補給はスポーツドリンクに頼る必要はなく、水分補給自体も喉の渇きが自覚できるようになるほどになってから補給していけばよいという結論が導かれます。こうした調子で、本書ではスポーツ中、スポーツ後の疲労回復に有効とされる補給食やサプリメント、マッサージやスポーツ機器といったアイテムが本当に有効だという根拠があるのか、疑問を投げかけていきます。
ではなぜ、科学的根拠がはっきりしないリカバリー・アイテムが広まっているのか?その背景にはスポーツビジネスがそのマーケティングのために様々な研究を都合よく利用していること、有名なアスリートを広告宣伝に起用することでその製品を使えば効果があると錯覚させていること、などが紹介されていきます。一方で、スポーツ科学において真に科学的な手法であるリカバリーアイテムの有効性を確認することの難しさもあわせて説明されます。例えばスポーツドリンクの有効性を確かめるなら、同じ条件でスポーツドリンクの成分を含まない真水についてもテストする必要がありますが、人間が口に含めばそれがスポーツドリンクか真水かは味ですぐにわかります。すると「プラシーボ効果」を区別することが難しくなります。他にも、熱中症の原因として水分不足は必須の条件でないにもかかわらず、水分不足は体重を測ればすぐにわかるという事情から水分不足が過剰に熱中症の原因として注目されるようになった(57-58ページ)といった事情もあるとのこと。
例え根拠がなくてもアスリートはリカバリーのためのアイテムを必要としている
では科学的な根拠がはっきりしないならば、私たちはスポーツドリンクや様々なサプリメント、スポーツ前のストレッチやスポーツ後のマッサージを全て止めてしまうのでしょうか。この書評の筆者の経験からいっても、そう簡単にやめることはなさそうです。なぜなら、そういうアイテムを活用することでレースで上手くいった経験があるから。科学は根拠がないといっても実際に効果を体験したのは間違いないから。
このことを説明するのが、偽薬を投与された人が何らかの効果を期待することで、現実に身体に生理的な反応が生じる「プラシーボ効果」ということになります。世界的に活躍するトップ選手や身近な信頼を寄せる人から勧められればきっと効果があると信じ込む。一連の動作で体を伸ばすストレッチはスポーツ前の儀式として、「準備万端整った」という満足感と自信を与えてくれます。様々なリカバリーアイテムを試し、インタビューを重ね、文献を読み漁った著者は「様々なリカバリー手法が、少数の同じリカバリーアプローチのバリエーションではないかと考えるようになりました」(274ページ)といいます。先に紹介した空港で手荷物を待つ例えでいえば、同じように回復するとしても何もしないで待っているよりは、様々なリカバリー手法に取り組んでいる方が気が楽。さまざまなリカバリー方法があってもその点は似たようなもの、ということです。
豊富な取材に支えられた読み応えある一冊、スポーツ経験のある人なら引き込まれるはず
以上、本書を読んで筆者の印象に残ったポイントに絞って紹介しました。筆者のクリスティー・アシュワンデン Christie Aschwandenは大学で生物学を専攻した経験を持ち、ワシントンポスト紙やRunners World誌に寄稿しているサイエンスライター。クロスカントリースキーでプロとして活動した経験を持ち、本書でも触れられているように現在はトレイルランニングやMTBにも積極的に取り組んでいるアスリートの顔も持っています。スポーツについて書くライターは日本にもたくさんいますが、スポーツ科学について客観的な視点から解説するスポーツ・サイエンスライターは少ないように思います。今般、日本語で本書を読むことができるようになったことは幸運なことです。
300ページを超える大著ですが、内容は一章ごとにそれぞれのテーマについて一つの読み物としてまとまっています。スポーツに関わりのある人すべてに興味深いテーマが並んでいますが、とりわけトレイルランナー、ウルトラランナーにとってはどのテーマも身近なものばかりであっという間に読み進めてしまうはず。著者がインタビューした相手には現在のアメリカのトレイルランニング界で注目の選手たちも含まれています。
なお、本書の第9章ではオーバートレーニング症候群について触れられています。ハードなトレーニングで身体に能力を超える負荷をかけ、そこからリカバリーすることでさらに高い能力を得ることを繰り返すのはランナーのトレーニングの王道。しかし、真面目にトレーニングに打ち込むあまり、リカバリーに必要な休養を罪悪視してさらに強い負荷を重ねてしまうと、トレーニング後の疲労から長期間回復できない状態に陥る、というものです。本書ではアメリカのマラソン界で一世を風靡したライアン・ホールが著者のインタビューに応じています。トレイルランニングの世界でも、トップを極めた選手だけでなく一般の市民ランナーでも長期にわたって以前の調子を取り戻せなくなることが少なくありません。「自分の身体の声に耳を澄ませ」という言葉はシンプルですが、人間の身体の不思議で複雑な仕組みにいつも通用するメッセージとして胸に刻むべき、と感じました。