2026年のトレイルランニング・カレンダーにおいて、2月の第2週末は「ザ・ゴールデンチケット・ウィークエンド」として歴史に刻まれることになりました。ニュージーランドのタラウェラ Tarawera Ultra-Trail by UTMB と同時開催されたアメリカ・アリゾナ州のブラックキャニオン 100k(Black Canyon Ultras 100k)は、単なるウエスタン・ステイツ Western States 100 への予選会という枠組みを完全に超越しました。そこにあったのは、競技の高度な専門化と、ファンの熱狂が直接アスリートを支える新しいエコシステムの誕生でした。
アリゾナの砂漠を縦断するこのコースは、前半の「危険なほどのハイスピード・セクション」と、後半の「走るリズムを執拗に破壊するテクニカルな岩場」という極端な二面性を持っています。乾燥した空気、容赦ない直射日光、そして砂塵を巻き上げる強風。今年の完璧なコンディションはトップアスリートたちの野心に火をつけ、これまでの常識を根底から覆す記録の爆発を生み出しました。
Sponsored link
(写真 100K男子のレースをリードするハンス・トロイヤー Photo © Mark Griffith-Black Canyon Ultras – World Trail Majors)
女子の部:史上初の「アンダー8時間」到達とリヒターの執念
今年の女子のレースは、トレイルランニングの歴史における「特異点」となりました。優勝した ジェニファー・リヒター Jennifer Lichter (USA) がマークした7時間57分05秒というタイムは、女子トレイルランニング界における歴史的なブレイクスルーです。これは、トレイルという不確定要素の多いフィールドにおいて、高い専門性を持ったスピード・アスリートたちが、マラソン的な精密さで100kmを支配し始めたことを意味しています。

女子優勝のジェニファー・リヒター Jennifer Lichter Photo © Mark Griffith-Black Canyon Ultras – World Trail Majors
リヒターの勝利を支えたのは、緻密な戦略と圧倒的な練習量だったようです。彼女は今回のレースに向け、コーチの ジョン・フィッツジェラルド John Fitzgerald (USA) の指導下で、週に140マイルを超える猛烈なトレーニングを積み、事前に現地でのコースキャンプを敢行しました。彼女が体現したのは、単なるスタミナではなく、極限状態での「スピードの維持」です。レース終盤、彼女はペーサーに対して「誠実なペース(honest pace)を刻んでほしい」と要求。独走状態になっても自分を追い込み続け、100kmを押し切るための絶対的な強さを見せつけました。
彼女にわずか70秒差という僅差で続いた アン・フラワー Ann Flower (USA) もまた、8時間の壁を破る7時間58分15秒でフィニッシュしました。現役の医師でもあるフラワーは、バックパックを着用せず、ボトルだけを手に走るミニマリズムなスタイルを貫きました。終盤、リヒターの背中を視界に捉え続けながら展開された秒単位の攻防は、女子の競技レベルが全く新しい段階に突入したことを象徴しています。
さらに3位には、昨年のコースレコードを14分も短縮する8時間11分46秒で タラ・ダワー Tara Dower (USA) が食い込みました。ラグビー選手として活動し、兄に鍛えられたという彼女の根性は、レース中に見舞われた複数回の転倒による痛々しい外傷さえもアドレナリンに変えました。肩や膝を血に染めながら「私は全力を尽くした」と語る彼女の姿は、このスポーツが持つ野生的な魅力を改めてファンに届けました。

100Kの女子トップ3。Photo ©Mark Griffith-Black Canyon Ultras – World Trail Majors
Black Canyon 100K 女子トップ10
- ジェニファー・リヒター Jennifer LICHTER (USA) 7:57:05
- アン・フラワー Ann FLOWER (USA) 7:58:15
- タラ・ダワー Tara DOWER (USA) 8:11:46
- モリー・セイデル Molly SEIDEL (USA) 8:25:13
- アビー・ホール Abby HALL (USA) 8:27:50
- シェイ・アキラノ Shea AQUILANO (USA) 8:34:03
- エラニー・マタレーゼ Ellaney MATARESE (USA) 8:56:27
- シドニー・ウェルチ Sydney WELCH (USA) 9:02:20
- ライリー・ブラディ Riley BRADY (USA) 9:14:08
- カーラ・モリナロ Carla MOLINARO (GBR) 9:21:18
(全体のリザルトはこちら)
モリー・セイデルの挑戦と「トレイルの洗礼」
東京五輪マラソン銅メダリスト、モリー・セイデル Molly Seidel (USA) の参戦は、世界中のメディアの注目をさらいました。彼女は序盤、ロードで培った圧倒的な走力を見せつけましたが、中盤の無補給区間で水切れを起こすという、トレイル特有の過酷な洗礼を受けることになります。

4位でフィニッシュしたモリー・セイデル Molly Seidel Photo © Mark Griffith-Black Canyon Ultras – World Trail Majors
一時は大きく失速し、呼吸も荒くなった彼女でしたが、そこからのリカバリーこそがトッププロの証明でした。エイドで冷静に体制を立て直し、最終的には4位でフィニッシュ。「ロードとは全く違うスポーツだが、このコミュニティの熱狂が私を運んでくれた」と語る彼女の適応能力は、6月の100マイル本戦で大きな脅威となることを予感させます。
男子の部:ハンス・トロイヤー、絶望からのリベンジと新記録
男子のレースを制した ハンス・トロイヤー Hans Troyer (USA) の勝利は、ウルトラランナーの「レジリエンス(回復力)」の象徴です。2024年大会、彼は優勝目前で重度の横紋筋融解症を発症し、12日間の入院を余儀なくされました。その絶望から這い上がった彼は、ジム・ウォルムズレイ Jim Walmsley (USA) らと共に練習を積み、7時間20分00秒という驚異的な新コースレコードと共に戻ってきました。
トロイヤーのレース運びは、かつての危うさを微塵も感じさせないほどコントロールされたものでした。終盤、2位の アンソニー・コスタレス Anthony Costales (USA) が猛追していることを知ると、トロイヤーは「最後は星が見えるほど追い込んだ」と語り、限界を超えたデッドヒートの壮絶さを物語りました。コスタレス自身も、レース中盤に膝の違和感で失速しながらも後半に驚異的な巻き返しを見せ、ベテランとしての執念を見せつけました。
さらに3位には、アラスカ出身の トレイセン・ノップ Tracen Knopp (USA) が7時間26分45秒でフィニッシュ。冬の間、極寒のアラスカで練り上げたフィジカルは、砂漠の熱気の中でも一切揺らぐことはありませんでした。彼は2024年の6位からタイムを20分以上短縮し、悲願のゴールデンチケットを掴み取りました。
Black Canyon 100K 男子トップ10
- ハンス・トロイヤー Hans TROYER (USA) 7:20:00
- アンソニー・コスタレス Anthony COSTALES (USA) 7:24:32
- トレイセン・ノップ Tracen KNOPP (USA) 7:26:45
- キャニオン・ウッドワード Canyon WOODWARD (USA) 7:37:27
- ジョーダン・ブランブレット Jordan BRAMBLETT (USA) 7:42:32
- フェルディナンド・アイロール Ferdinand AIRAULT (FRA) 7:47:25
- コールマン・クレイグン Coleman CRAGUN (USA) 7:54:16
- セージ・カナデイ Sage CANADAY (USA) 7:52:42
- ザック・ペリン Zach PERRIN (USA) 8:09:47
- アンドリュー・クオール Andrew QUAAL (USA) 8:11:51
(全体のリザルトはこちら)
確定:ゴールデンチケットを獲得した勝者たち
今回のブラックキャニオンは、上位選手にすでに権利保持者が含まれていたため、ウエスタン・ステイツへのチケットは規定通りにロールダウンされました。
男子チケット獲得者: アンソニー・コスタレス、トレーソン・ノップ、そして地元アリゾナで単独走の賭けに出たジョーダン・ブランブルットの3名。
女子チケット獲得者: ジェニファー・リヒター、アン・フラワー、モリー・セイデルの3名。セイデルはインタビューで、ウエスタン・ステイツへの挑戦について「やるしかない(I have to do it)」と即答し、会場を沸かせました。
日曜日のスピード決戦:50Kのリザルトと日本勢の健闘
100kの興奮冷めやらぬ翌日には、よりハイスピードな50kレースが開催されました。この距離は「スピードスターたちのショーケース」としての性格を強めており、世界レベルのアスリートたちがその爆発力を披露しました。
女子の部:ジェーン・マウスの雪辱と髙村貴子の挑戦
女子は ジェーン・マウス Jane MAUS (USA) が3時間47分04秒で優勝を飾りました。2025年のWMTRC世界選手権ショートトレイル4位の実力者である彼女は、前年の100k部門でのリタイアという苦い経験を、今回の見事な勝利で払拭しました。2位には室内陸上の五種競技で欧州銅メダリストという異色の経歴を持つ リズ・オコナー Liz O’CONNOR (USA) が入りました。
日本からはスカイランニングの女王 髙村貴子 Takako TAKAMURA (JPN) が参戦。欧州のトラックエリートらも顔を揃えるハイスピードな展開に真っ向から挑み、女子6位(4時間13分39秒)に食い込みました。日本の山岳シーンで培った強さが、アリゾナの高速トレイルでも通用することを証明した価値あるトップ10入りでした。
男子の部:セス・ルーリングの2冠とアダム・ピーターマンの完全復活
男子の部は、昨年の100k覇者 セス・ルーリング Seth RUHLING (USA) が3時間16分29秒で制し、ブラックキャニオンの主要2距離を制覇するという歴史的な快挙を成し遂げました。2位には2022年のウエスタン・ステイツ王者 アダム・ピーターマン Adam PETERMAN (USA) が入り、2023年の怪我からの完全復活を世界に印象づけました。3位の ケイド・マイケル Cade MICHAEL (USA) は陸上競技の障害走出身のスピードを武器に、初の大きなトレイルの表彰台を勝ち取りました。
「くれいじーかろ」こと 甲斐大貴 Hiroki KAI (JPN) は男子17位でフィニッシュ。世界のトップレベルのスピードを肌で感じたこの経験は、今シーズンの次なる挑戦への大きな糧となることでしょう。

Photo ©Mark Griffith-Black Canyon Ultras – World Trail Majors
Black Canyon 50K トップ10リザルト
女子:
- ジェーン・マウス Jane MAUS (USA) 3:47:04
- リズ・オコナー Liz O’CONNOR (USA) 3:52:30
- リンジー・アリソン Lindsay ALLISON (USA) 3:55:44
- ビット・クレッカー Bit KLECKER (USA) 4:06:44
- エリン・モイヤー Erin MOYER (USA) 4:10:42
- 髙村貴子 Takako TAKAMURA (JPN) 4:13:39
- シドニー・パーク Sydney PARK (USA) 4:17:09
- メロディー・ギルバート Melodie GILBERT (USA) 4:17:27
- クリッシー・ロフグレン Chrissy LOFGREN (USA) 4:20:11
- エレナ・オーモン Elena ORMON (USA) 4:25:30
男子:
- セス・ルーリング Seth RUHLING (USA) 3:16:29
- アダム・ピーターマン Adam PETERMAN (USA) 3:18:18
- ケイド・マイケル Cade MICHAEL (USA) 3:18:43
- ヨハン・デレオン Johen DELEON (USA) 3:23:47
- ライアン・サリバン Ryan SULLIVAN (USA) 3:24:34
- ジュピター・カレラ・カサス Jupiter CARERA CASAS (MEX) 3:25:11
- コール・キャンベル Cole CAMPBELL (USA) 3:28:01
- ジェシュルン・スモール Jeshurun SMALL (USA) 3:29:54
- ディラン・パスト Dylan PUST (USA) 3:34:02
- エリック・ハメル Eric HAMEL (USA) 3:34:31
(全体のリザルトはこちら)
コミュニティが支える新制度:レースパースの成功
今大会、DogsorCaravanが最も注目したのは、新制度「レースパース(Race Purse)」の成功です。これは、ライブ配信視聴者がYouTube等を通じて直接アスリートに賞金を寄付し、その総額を主催者のアラヴァイパ・ランニングが同額マッチング、つまり倍増させる仕組みです。
最終的に100kレースだけで16,726ドル(約250万円)が集まりました。この賞金は男女同額で、優勝したトロイヤーには5,018ドル、リヒターにも同額が贈られました。ファンの熱狂が直接的にアスリートを支えるこのモデルは、スポンサー企業に依存しない持続可能なプロ・スポーツの形を提示したといえるでしょう。
今回のブラックキャニオンにおける男女差はわずか37分でした。女性アスリートの生理的な耐久力の高さに加え、精密な補給・冷却戦略、そしてロード由来のスピードをトレイルに翻訳する技術が噛み合った結果です。また、レースパースの成功は、トレイルランニングが単なる消費的なイベントから、コミュニティがアスリートを再生、支援する文化へと成熟した証といえるでしょう。














