いよいよ今週末の10月7日(日)午後1時にスタートするハセツネカップこと日本山岳耐久レース。20回目を迎えるこのレースの実行委員長である宮地由文さんに、レース前のインタビューに応じていただきました。
前半では、ハセツネの始まり、今後の方向性についてお話を伺っています。
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*後半は以下をご覧ください。
[DC] 日本のトレイルランニングの組織化、自然保護・ハセツネ実行委員長・宮地由文さん レース前インタビュー(2)
【ハセツネ事始めと今後の方向性・ハセツネ実行委員長・宮地由文さん レース前インタビュー(1)】
(ハセツネの起源)
DogsorCaravan.com:岩佐です。今日は日曜日の7日にハセツネカップ(日本山岳耐久レース)を控えて、実行委員長の宮地由文さんをお訪ねしています。そもそもこのハセツネカップはどのようなことから始まったのか、伺ってよろしいでしょうか。
実行委員長・宮地由文さん:1993年に第一回のハセツネカップが開催されましたが、それよりも10年くらい前から東京都山岳連盟の若い仲間によって丹沢で山岳マラソン大会が行われていました。山を走ることは昔から行われていたわけです。また日本山岳会の学生部は戦後すぐあたりから皇居で大学山岳部のレースを行っていました。それと日本山岳協会の最大の組織として数万人規模の東京都山岳連盟があり、日本のそして世界の山に散らばっているわけです。しかし、東京の山にはほとんど行っていないんですね。東京の山にも歴史があって2000m級の山もあります。東京の人たちが東京の山に親しむようにしたい。それに山のトレーニングの一つとしてカモシカ山行というのがあります。一晩中、山を歩くわけです。さらに、国民体育大会に山岳競技というのがあります。当時は山を走る縦走競技、オリエンテーリングに似た踏査競技、そしてクライミングの三つを一つにした競技です。山を走る縦走競技では当時鏑木さんが一番強かったわけですが、その選手を発掘し、トレーニングするという意味もありました。そんなことで、日本山岳耐久レースを始めたわけです。
(ハセツネの今後の方向)
DC:それが少しずつ走るスポーツに変わっていくわけですね。変化をお感じになるようなことは何かあったでしょうか。
宮地:よく大会当初はキスリングに登山靴を履いた山ヤさんがいて、なんていう人がいますが、実際はそんなにいなかったですね。ランニングシューズにランパン、ランシャツという姿が、ランナーだけでなく普段は登山をしている人でも多かったです。そうした中でトレイルランニングが(競技として)純化していって、オリエンテーリングや登山者もそしてメーカーもそのための装備を調える。次第に世界的にトレイルランニングのブームが始まりました。平地を走るだけでなく、登りも下りもある、そういう技術が形成されていきます。そして現在に至るわけですね。
DC:ますますその傾向というのは進んでいって、ハセツネのタイムもどんどん短縮されて、コースレコードは7時間半に迫っています。そうした高速化するハセツネについて、やはり時代の変化にあわせて変わっていくべきとお感じになりますか。
宮地:それは当然だと思いますね。たとえばクライミングでも、それが競技になったときには野外から室内でやるように変わっていきました。昔、未踏の岩壁をどう登るのか、初踏を誰がやるのか、という国際的な競争がありました。長谷川恒男もその最前線にいたわけです。しかしそうした死を賭けた競技を経てほとんどの岩壁が登り尽くされました。すると、次はどうやって速く登るか、例えば山ヤの連中が2泊3日でいくところを一日でいく、というような競争が始まっていたんですね。それが純化して今に至るわけです。ハセツネでも第一回目の時はテレビが入りましたが、テレビカメラが入るには地域が大きすぎる、人手がかかりすぎるので一部のテレビ局しか番組を作れないんですね。もう少しテレビ映りのことも考えてほしい、なんていわれます。私はトライアスロンもやっていたんですが、ロングからオリンピックディスタンス、それもテレビ映りのいい周回コース、というように変わってきています。トレイルランニングも競技が大衆化、マスメディアに登場する、ということなら狭いエリアで競技を見せやすくするということも必要なんじゃないかということも考えています。
*誤字訂正しました(誤・長谷川恒夫→正・長谷川恒男)2012/10/02 10:34
DC:すると、五日市会館を起点にぐるっと一周してくるというコースについても、今後は考えていく必要があるということになるのでしょうね。