このブログでも何度も紹介しているアメリカのトレイルランナー、トニーことアントン・クルピチカ。上半身裸で長い髪をなびかせながら走るその姿は、写真でも一度みたら忘れられない強烈な印象を与える。当方にとっても、今もっとも気になるトレイルランナーの一人だ。
そんなトニーのことを調べていたら、彼の生い立ちからクロスカントリー走の選手だった学生時代、そしてLeadville 100、レッドヴィル100マイルレースで2006年、2007年と二連覇してトレイル/ウルトラランナーとして広く知られるようになるまでを紹介した記事を発見。
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ここでは、その抄訳をご紹介したい。2007年の記事でトニーはまだ23歳か24歳の頃の記事だが、今に至る彼のランニングに対する考え方がどのように生まれたのかがわかる貴重な記事だ。トニーといえば身につけるものを最小限にするミニマリストランナーとして有名だが、それは見かけだけのことではないことがよくわかる。
記事後半は来週くらいにたぶん紹介します。
(追記・記事後半を以下で紹介しています。)
[people] 後半です:若きミニマリスト・ランナーの実践と思想・トニーことアントン・クルピチカの紹介記事(下) | Dogs or Caravan.com
Running Times Magazine: Tarzan of the Plains
平原のターザン:トニー・クルピチカ、トレイルランニングの自然児(抄訳)
アダム・W・チェイス
ほんの一瞬の出会いであっても、記憶から消えない人物はいるものだ。アントン(トニー)・クルピチカ(Anton (Tony) Krupicka)もそうした人物の一人だ。私がトニーに初めて会ったのは2006年6月のEstes Park Marathonのスタートの時だった。
米国内で最も高所で行われるロードのフルマラソンがスタートして、5人の先頭集団の中で彼が最も目立っていたのはその長髪ともじゃもじゃのあごひげのせいだろう。まるでヒッピーにしか見えなかった。おそらく、それは彼のウルトラ・ミニマリストなやり方だった。履いていたのはナイキの使い古したワッフルソールのレーシングシューズ、と擦り切れたランニングパンツ。おそらくそれは彼の若気の至りだったのだろう。私は彼と装備を軽くすることの利点について話したのを覚えている。ただ、彼は2マイルも行かないうちに先頭集団を抜け出し、2時間45分2秒という今でも大会記録となっているタイムで優勝した(注・Estes Park Marathonはスタート地点の標高が約2300m、コース最高地点と最低地点の標高差が220m強のロードのフルマラソン)。
2ヵ月後、私はLeadville Trail 100マイルレースのスタートから3/4くらいにあるハーフムーンCPで友人のランナーのペーサーをするために待機していた。そこでは、若造が2位の選手を2時間近く引き離してトップを疾走しているという話で持ちきりだった。その若造を皆が「ターザン」と呼んでいるのを聞いて、私はそれがあのEstes Park Marathonで会ったクルピチカなのではないかと思った。思ったとおり、まもなくクルピチカはその特徴ある姿で走ってきた。上半身裸で長い髪を山に吹き抜ける風になびかせて走っていた。彼は史上2番目のタイムで優勝を飾り、レースを沸かせた。さらに翌年、彼が同じLeadvilleのレースで2006年のタイムを45分更新して優勝すると、彼の名前は広く知られ始めたが、「ターザン」と呼び続ける人もいた。
エドガー・ライス・バローズ(「ターザン」の著者)の小説の中のヒーローのように、この熱意ある24歳の若者は「文明の虚飾を脱ぎ捨てる」ことを追求したが、それは衣服についてだけではない。彼は見かけがターザンのようだというだけでなく、よく牛乳パックに表示されているのと同じくらいの低い体脂肪率の身体に鍛え上げ、最小限の衣服を身に着けることを好んだ(ターザンが腰巻きだけ身に着けているのに比べれば、もう少し多くの服を身に着けた)。さらに、彼が寝泊りしていたのもターザンが選んでいた樹上の寝床とさして変わらない場所だった。
最初のLeadvilleのレースの前夜、彼は公衆トイレを寝床にした。今年(2007年)は結局サッカー場を選んだが、酔っ払いが吹くハーモニカの音で眠れなかったという。クルピチカがそうした場所と相性がいいというわけではない。彼によれば、ホテルで泊まるカネを使わずに済むほど安上がりな男であり、ホテルの部屋を前もって予約するほどきちんと計画を立てるような性分でもない、のだという。Leadvilleのレースが行われる週末は、かなり前からホテルの部屋は予約で埋まってしまう。
今年、昨年泊まったときには「びっくりするほど清潔だった」公衆トイレに「落書き防止のため閉鎖します」と書かれた看板があったのをみて、クルピチカとガールフレンドのジョセリン・ジェンクス、ペーサーのカイル・スカッグスは公園のサッカー場にテントを張ったのだという。「お粗末な寝床だよ。でも十分だった。酔っ払いのハーモニカはうるさかったけどね」とクルピチカはいう。
ネブラスカに生まれ育つ
クルピチカのミニマリストの哲学と周囲の環境に適応する生き方は、彼がネブラスカ州の北東部で育ったことに由来する。彼はニオブララ(サウスダコタ州との州境にある人口400人の村)で育ち、彼の父・ロンは畜産業を営み、牧草を育てていた。彼の母・リズは地元の高校で教師をしていた。クルピチカによれば、父から考えること、読むこと、質問すること、そして学ぶことの大事さを学んだという。彼の父親は20年近くも農業改善の非営利団体で仕事をし、小規模農家向けエネルギープロジェクトを手がけていた。それは持続的に利用可能な代替エネルギー源を農民に普及させ、環境に配慮した利用を促すことを目的としていた。「農家で育ったことで、間違いなく自分には一種の大地に根ざした価値観が根付いたし、それはとても自分にとって価値あることだと思う。僕にはオリジナルなことなど何もないと思うよ。たぶん親父の生き写しみたいなもんだよ。」という。
クルピチカの一家は薪ストーブで暖をとり、トイレは屋外に設け、井戸から風車で水をくみ上げ、三つの巨大な庭と果樹園を手入れし、作物を冬の間保存するために木の根の蔵を使っていた。「(こうした昔ながらの生活は)子供のころから自分には当たり前だったし、『普通の生活』からいかに外れていたかとかどれほど革命的なことで「大地に帰る」生き方と考えられていたこととかは、大学に行くまでは全く知らなかったんだよ。」とクルピチカはいう。「石器時代に育ったとかいうわけじゃないけれど、自分の生活や存在が大きな自然環境の中にあることを常にわきまえ、環境に感謝して生活する家族の下で育ったことはいえるだろうね。」
クルピチカは小学6年生の時に、体育の授業で全米身体能力テストの一部である1マイル走の練習のために走り始めた。練習はすぐに実を結んで12歳の時に初めてフルマラソンを完走している。それ以来、家族がよくそうしていたように寄付された本や、雑貨屋や古書店で見つけた1970年代のランニングに関する古本を読み漁るようになり、ランニングが「何か大きなものに変わった」という。
「アーサー・リディアードの『Run to the Top』の第二版で彼のベーストレーニングの考え方とどの距離にも通じるマラソントレーニングを知ってから、週に100マイル、日曜日には22マイルを走らなくてはいけない、と思うようになったんだ。それで止めるようにいう人もいなかったから、やってみたんだけどメチャクチャ楽しかったよ。」
ネブラスカで走るのがクルピチカは大好きだった。尽きることなく続くアップダウンのある柔らかな未舗装路、見渡す限り広がる探検し甲斐のあるアップダウンのある牧草地。彼は牧草地の中の古くからあるダブルトラックのトレイルを走るのがとりわけ好きだった。そのトレイルはミズーリ川の渓谷を登り、彼の自宅の農場の裏の丘まで続いていた。彼はそのトレイルを「エチオピア・トレイル」と呼んだ。ハイレ・ゲブレセラシエ(エチオピア出身の前マラソン世界記録保持者)が映画「エンデュランス」の最初のシーンで走っていたトレイルを思い出させたからだという。
小さい頃、クルピチカはフットボール、バスケットボール、陸上競技の3つのスポーツにあこがれていたという。「ネブラスカの男の子ならみんなそうだったよ」。しかし、中学生になる頃から、クルピチカはランニングにのめりこみ始める。しかし彼が通った高校にはクロスカントリー走部がなかったので、高校にクロスカントリー走部を作ることを申請した。1年生の時にはフットボール部、2年生の多岐にはバスケットボール部にいたが、シーズンのほとんどの間ケガをしていた。部活動に加えて週に90マイルも走っていたからだ。
「ネブラスカではランニングは盛り上がっていたとはいえなかったね。どこだったらランニングが盛んだろう?たぶんボールダー(コロラド州)かユージーン(オレゴン州)か。もし陸上部で活躍する力のある長距離ランナーだったらどこに行ってもよかっただろうね。僕も3年生の時には安定していい結果が出せて、負けたレースは一度か二度しかなかったんだ。でも、その頃には陸上部の仲間に幻滅してしまって、レースの結果なんてどうでもよくなってしまった。ランニングは僕のよりどころであったし、できるだけ長く走って現実逃避をしていたかった。友達と一緒に高校に通うのがいやになってしまったけど、毎日往復14マイルを走って通学したのと、週末には20マイルほど思い切り走れたのはよかったよ。」
彼の両親は長距離走については何も知らなかったが、クルピチカが若くしてはっきりと生き方を決めたことを喜んだ。「彼の部屋の天井にはまだマット・カーペンター(トレイルランナー)のポスターや、ランニングについての言葉が張ってあるのよ。」と彼の母親はいう。彼の父親は息子が目を輝かせてランニングに打ち込んでいる様子について話してくれる。8月のLeadville 100のレースの時にはニオブララの村からフィニッシュ地点まで650マイルを車を走らせ、二年目にトニーが優勝するのを見に行ったのだという。
クルピチカはランニングを始めたときから両親と二人の姉妹がサポートしてくれていることに深く感謝している。「たぶん、両親は最初は僕が何をしているのか、何を目指しているのかわからなかったと思うよ。『うわあ、12歳の子供がマラソンなんて走っていいの?』なんてね。でも、両親がランナーズワールド(アメリカのランニング雑誌)に書いてあるような考え方にとらわれて僕に止めるようにいうのに比べればずっとよかった。両親は僕に人生ではバランスを取ることが重要だと気付かせてくれた。ランニングをサポートしてくれたわけではないけれど、人間として、息子としての僕をサポートしてくれたんだ。」
コーチにいらだつ
2001年にクルピチカはコロラド・カレッジに入学する。学生スポーツで評判が高い大学で、一つの専攻を深く掘り下げる履修プログラム、特にホッケーのプログラムがずば抜けていた。しかし、不幸にも1年生の時に陸上部で筋断裂を負い、その後のシーズンも成果を出すことはできなかった。
「いつも夏になるとネブラスカの家に帰って週に100-130マイルほどのベースを作るトレーニングをしたんだ。すると誰にも負けないほど身体が出来上がってシーズンを迎えることができるんだ。でもそれからレースに出たり週二回のスピード練習をして一ヶ月ほど過ぎると、完全に燃え尽きてしまって、レースはちっとも結果が出なかった。とてもとてもいらいらしたよ。」彼のクロスカントリー走8キロでの自己記録は27分32秒、5キロの自己記録は16分31秒で高校生の時のものだった。「全くダメだったよ。」と彼はいう。
クルピチカは大学時代に結果が出せなかったのは週に1回だけスピード練習をすれば大体、ピークの仕上がりに達していたためだと考えている。それはコロラド・カレッジの練習方法には合わなかった。
「実をいえば、他にも練習で間違ったことをたくさんしていたんだ。例えば、学生自体は海抜2000mの高地であってもマイル当たり7分よりゆっくり走るのは練習にならないと思い込んでいたんだ。だから、強度の低い練習の日にも追い込みすぎていたし、今思えば強度の高い練習の日にも追い込みすぎていた。そんなふうだから、レースでダメなのはわかりきったことだった。今では、練習のほとんどをマイル当たり8分かもっとゆっくり走っても5キロ走や10キロ走の自己記録を更新できると思うよ。」
大学生の頃から、クルピチカのランニングは、彼曰く「より直感的で個人的なもの」になった。高校生の時も大学生の時も、コーチの言うことには従わなかったという。本当に、彼にとってランニングは誰のアドバイスも受け付けないし、求めない生きることそのものになったのだ。「どんなふうに走ったらいいか、なんて誰にもいわれたくないんだ。僕にとってランニングは旅であり、プロセスであり、予め決めた枠組みの中で達成される目的があるようなものとは全く違うんだ。だからコーチなんて全く必要としないんだ。」
(後半は以下からどうぞ)
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