鎌倉で開かれていたトレイルランニング大会が鎌倉市の要請により中止されたというニュースが報じられたのは昨年の秋。 これをきっかけに、一部のメディアでトレイルランニングの先行きを案じる、というトーンの報道をみかけるようになりました。これを機に、こうしたトレイルランニングが広げている「波紋」について当サイトの考えをまとめてみました。
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参考
- 山道駆け抜ける「トレイルランニング」 愛好者急増で波紋広がる ハイカーとの接触事故懸念、大会中止も+(1/2ページ) – MSN産経ニュース
- 【金曜討論】トレイルランに指針 「踏み荒らしの発生も危惧」「やめろと言うのはおかしい」 浦添嘉徳、山西哲郎両氏が激論+(1/5ページ) – MSN産経ニュース
まずはトレイルランナーの間で共有したいこと
まず、一人一人のトレイルランナーが心がけたいことは既にあちこちでいわれている次のようなこと。
- ハイキングコース(特にシングルとラック)で前に人影をみたらできるだけ手前から大きくスピードを落とす。すれ違うときにはかなり手前から歩く。
- ハイキングコースで人影をみたら挨拶の声をかける。特に前を同じ方向に歩いているハイカーにはやや距離のある手前から大きめの声で声をかける(至近距離で声をかけて驚かせない)。
- 通常のハイキングコースを外れない。特に斜面のスイッチバックをショートカットでまっすぐ下りたり、木の階段を避けたりしない(植生の保護とトレイルの斜面の土砂が崩れるのを防ぐ)
- グループで走る時は、一人一人が上記に気を配る(仲間内の話に盛り上がって周囲への意識が散漫になりがち。しかし仲間内で互いに注意し合うような無粋はしたくない)
- 気持ちよく走れるコースや時間帯を選んでトレイルに入る、場合によっては無理せずハイキングに切り替える(例えば週末の鎌倉・天園ハイキングコースや高尾山一号路などは人がかなり多く、トレイルランは控えたい)
と、以上ははっきりさせたうえで、以下はトレイルランに批判的な報道について当方が思うこと。
そもそも意見の対立や論争があるのか?
報道をみていると、「愛好者急増で波紋広がる」とか擁護派と規制派が「激論」といった言い方がされており、トレイルランニングをめぐって深刻な対立が起こっているかのよう。
しかし、実際にそんな対立が起こっているのだろうか。むろんトラブルがどこにもないとはいえないだろう。ただ、それに取り組む人が増えてくればマナーに欠ける人も現れ、混雑すればトラブルも起こる。時にはやや深刻なことも起こるが、それはその都度誠実に解決していくべきこと。自然を楽しむ市民のアクティビティそのものの是非を問うような対立や論争があるのだろうか。上記の「討論」という記事を読んでも二人の論者の間にあるのは言葉尻の違いだけで本質的な価値観の違いがあるようには思えない(論者がそれぞれ重視する利益の代弁者という立場から発言するので噛み合ないようにみえる)。
市民の関心を自らに集めるために、ありもしないところで対立や論争をあおるのはこの国のマスメディアの恥部。そしてそれはある程度、市民の関心やリテラシーの実態を映しているともいえる。話題の本質を健全な常識に照らして考えることで、市民とマスメディアの不毛な関係を改められないだろうか。
自主規制で自分たちのトレイルランを萎縮させるのは愚の骨頂
トレイルランニングに大きな問題があるとするならば、環境省や文部科学省、あるいは新しく競技団体を立ち上げて自主規制ルールを設けるべきだろうか。
この種の「お上」の権威に頼って、権威ある誰かに決めてもらったルールに従えば安心、という発想は、トレイルランニングという新しいスポーツの魅力を曇らせることが容易に想像できる。安全で誰も文句はいわなくなったが、楽しみもなくなった。そんなことになるのではないか。そして、それこそが既得権を持った人々の望むところなのだ。
もちろん、トレイルランニングの楽しみ方が野放図であっていいわけはない。安全、自然保護、所有権の保護といった事情に配慮した一定のルールが必要だろう。
ただ、そのルールは常にトレイルランを楽しむ人たち自身が自ら問題意識を持ち、解決策を考えて、ルールを更新するべきだ。そうした自律の態度があってこそ、意味のあるルールとなり、トレイルランを楽しみ続けることもできるはずだ。 さらに進めていうなら、そうした自律の態度があるなら、トレイルランニングの楽しみ方をもっと広げることもできるはず。例えば、人が集まるレースだけでないトレイルランニングのイベントが開けたり、国際的な交流をもっと広げられたり、といった具合に。
自律の態度は「守り」だけではなく「攻め」にも必要なことではないか。
トレイルランナーはこのスポーツの何が魅力なのかを自覚してそれに従って行動すべき
さて、マスコミにあおられないとか自律の態度などという、説教じみたことを考えるのは「トレイルランナーならこのスポーツに感じる魅力を共有しているはず」と当方が信じるから。その魅力とは、美しくも巨大な自然や圧倒的に困難な距離を受け入れて自ら創造的に取り組む過程や結果を楽しむこと。権威ある誰かや世間で人気の何かに何となく従って走っているわけではないはずだ。
そうしたトレイルランナーなら、自らの力でこのスポーツの楽しみをもっと広げていけるはず。もちろん、その過程ではトップレベルのエリートランナーや、優れたシューズやウェアを生み出すアウトドアメーカー、補給食のメーカー、自治体、マスメディアといった存在が大きな役割を果たす。ただ、一番熱意を持ってこのスポーツを引っ張っていくのはトレイルランナー自身であるはず。
その意味で最近少し気になるのは、トレイルランナーの声が周囲に歪んで聞こえているのではないかということ。レースに求めるのはおもてなしが一番。トレラン大会を開けば人が集まって賑わいになる。トレイルランナーが関心を持つのはシューズにウェアとかでリスクをあおれば財布を開く。トレイルランナーについてそんな認識が広がれば、結局損をするのはトレイルランナーなのではないか。
当サイトは上記のような考え方をもとにして、既存のメディアとは一線を画した存在として、トレイルランニングの魅力と可能性を紹介していきたい(その上で当サイトのフィナンシャルな自律も果たしたい<これ切実>)と考えています。