先月3月にメキシコ・コッパーキャニオンで開催された「ウルトラマラソン・カバーヨブランコ」(旧称 コッパーキャニオン・ウルトラマラソン)。日本でもベストセラーとなり、裸足ランニング、ミニマリスト・ランニングのブームを生み出した本「BORN TO RUN」の舞台となったウルトラマラソン。今年は、日本からも8人のグループが走る民族であるタラフマラの人々とその生活の舞台に実際に足を踏み入れ、レースに参加しました。
そのグループのメンバー・ハンダさんから、このイベントの参加レポートをいただきました。トレイルランニングのレースという一面よりも、現地の雰囲気、タラフマラの人たちとの交流、それを通じてトレイルランニングとどのように向き合っていきたいか、をまとめたレポートをご覧ください。
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【¡Hola! ハンダです】
ひと月前の3月上旬、メキシコ北部コッパーキャニオンで行われたレース、UMCB(ウルトラマラソン カバーヨブランコ)に参加してきました。
既に仲間達が様々なメディアでレースや旅のレポートを皆さんにお伝えしており、ご覧になった方も多いかと思います。帰国後には報告会も行わせていただきました。今回、D/C岩佐さんにお声掛け頂き、不肖ハンダも筆を取らせて頂く次第となりました。また違った旅の側面をお知らせできたらと思います。
さて、僕も御多分に洩れず『BORN TO RUN』にしてやられた1人。今回の参戦は正に物語の中に入ってゆく旅でした。少しの裏話を交え、現場の空気やレース本番の様子をお届けします。
【峡谷へのアプローチ】
皆さんメキシコ北部と、あのレースの開かれるコッパーキャニオンにどのようなイメージを持たれていますか?
『BORN TO RUN』の著者クリストファー・マクドゥーガルが表現した、死と隣り合わせの危険な土地…という感覚、今回の旅では幸い感じることはありませんでした。(もちろん旅程を組む際に危険度を最小化しています)
日本を発ち、ロサンジェルスを経由、メキシコの地方都市エルモシージョで再びトランジット、その後チワワ太平洋鉄道の太平洋側の起点の街ロスモチスに入ります。ここで一泊。翌朝6時の列車に乗り込み6時間強の列車旅。そうしてやっと峡谷の入口のひとつバウイチーボの町へ。ここには小さな町しかないのですが、都市部とは違った太陽と乾燥した土地、土埃の含まれた空気が我々を迎えてくれました。
出発前にそれなりの“覚悟”をしていた為、ロスモチスのホテル、チワワ太平洋鉄道共にかなり立派で逆に驚く始末。また、タクシーの運転手、ホテルのポーター、鉄道の職員など、皆我々のつたないスペイン語にも笑顔や困り顔で対応してくれて、なんとも快適な移動でした。
しかしながら、うっかりラグジュアリーなのはここまで。バウイチーボからはチャーターした車に揺られ揺られ揺られ…休憩を挟みつつ3時間です。このバウイチーボからの3時間はそこそこワイルドw バンに6人、ジープ2人と別れて乗り込んだのですが、なんとジープはバックギアが入らない! 更にシートが破けている、車内まで砂々しいという状況。ジープに乗った2人は相当堪えてました…
【ランナー達とウリケの人達】
そんなこんなで、我々はレース4日前にウリケに着きました。
現地では学校訪問などのプレレースプログラムが進行しており、既にランナーたちは町にちらほら。日本人一行が到着すると「お、エージアンのアミーゴ!」とばかりに話かけてきます。
常連たちからは超ウェルカム、初めて参加した者同士でも「ついに現場に来た!」という一体感からか、レースに関わる皆が仲間で身内という雰囲気ができていました。物語への憧れや、走る民ララムリへの関心、昨年亡くなったこのレースの発起人カバーヨ・ブランコへの思いなど、濃淡の差こそあれ、ランナー達に共通の下地がありました。
また、大会の規模が大きくなってきているとはいえ、顔の見える仲間によって大切に続けられて来たからこそ、この雰囲気が成せるのだと思います。後は町のサイズですね。町が小さく、ランナー達と頻繁に顔を合わせるので、あっという間に馴染んでしまうのです。 世界各地からこのレースの為にメキシコの辺境の地までやって来る連中は、皆『BORN TO RUN』にやられたウルトラランナーばかりで、現地はワラーチ、ルナサンダル率がかなり高い状況でした。
そして、町が小さくて馴染んでしまうのは、地元のみんなも同じ。メキシコ的なスタンダードなのか、町の人々は一日中家の外に椅子を出して座っています。知り合いにも、知り合い以外にも声をかけたり、挨拶したり。
我々も会う人会う人会う人に「¡Hola!」「¡Buenos Dias!」などと声を掛けます、掛けます、掛けます…なにせ、お店に入った時は勿論、すれ違ったり、家の前を通るだけでも挨拶ですからねw 挨拶し放題です。ある日、地元の子ども達が「オラオラオラオラオラ…」と笑いながら駆け抜けていきました。外国から来た連中があまりに「Hola!Hola!」と一つ覚えに言うもんだから、キッズに笑われてしまったようですw
【ララムリどーだった?】
大会2日前になると、ララムリ達がぼちぼちウリケに降りてくるという事で、その前夜から会えることを楽しみにしていたのですが、当日朝になって通りを見渡してもララムリ達はまだ来ていない様子。我々はその日の午前中のトレッキングに向かい、トレッキング後、馴染みになったママティタのお店で食事をすることに。
邂逅は突然でした。「町にララムリ居ませんねー」などと話しつつ「さあ昼メシだ!」と完全に気を抜いていた所にララムリ御一行が登場したのです。
明るい陽射しの入る食堂に色鮮やかな民族衣装を着たキマーレの一族。フツーに店に入ってきて、隣のテーブルに座ってる…興奮と共に若干ポカーンとしてしまいました。あまりに画になるんですもん。でも、本の中、物語の中では無く、僕らと同じタイル張りの床の上にララムリは居たのです。
しかも、この集団を纏めていたのは、『BBORN TO RUN』の中でスコット・ジュレクに競り勝った皇帝アルヌルフォ・キマーレでした!あの!
その後、町にはララムリ達が目に見えて増えてゆきます。そこで感じたのは、意外にもララムリ達とのやり取りが難しくないということです。ララムリは余所者がキライ。写真がキライ。そういう予習をしてきていましたが、彼らもこの大会の雰囲気に慣れてきているのかもしれません。我々の写真の要望に、恥ずかしがりながらも快く応えてくれました。ただ、彼らは本当にシャイでしたね。
また、当たり前なのですが、若いララムリの目からは町や外国人に対する好奇心が窺われ、面白い事柄に仲間同士で笑いあう姿も見ることができました。
当初、驚きと感動のあったララムリでしたが、次第に普通に感じてきますw なんだか可笑しいんですが、地元の人達と沢山の犬、牛、馬、、ロバ、鶏。そして、多国籍ウルトラランナー達とララムリが小さなウリケの町の中でフラフラしてます。明らかに日常ではないのですが、みんなが居て当たり前という不思議な状況に町がなっているんです。ハレなのにケみたいな。
ある日、町の入口で写真を撮っていると、ふらりとアルヌルフォが登場。勿論、普通に町にいます。「一緒に写真良い?」と声を掛け、パシャパシャ撮影。その後「コーラでもどう?飲むっしょ?」とアルヌルフォを誘ってママティタの店に移動。さあ飲むかと、仲間の一人がコーラを開けた瞬間…炭酸が炸裂!それを見たアルヌルフォが大爆笑ww という『BORN TO RUN』読者にとって夢のような、夢を壊すようなw事も体験して来ました。
レースでのララムリは色んなタイプがいました。走れる男達は本当に驚くようなペースで走っていました。常に全力走というか走り方が“かけっこ”なんですよね。何十キロ走っててもそれが続けられている感じです。彼らにとっては決まった距離をどれだけ速く走るかではなく、力走に近い状態でどれだけの距離を走り続けられるのか、ということが走力を意味しているような気がしました。
脚下はワラーチが殆どでしたが、普通のつっかけサンダルや、シューズのララムリも。シューズのララムリに関しては『BORN TO RUN』にも出てきましたね。あと、彼らは総じて登りが好きなようです。疲労が出始めると、下りやフラットでは歩き、登りだけ走るというララムリを良く見ました。不思議ですね。そして、女性たちはスカートのままレースを走ります。
この大会、チェックポイントで付けられる腕輪が、ララムリに限りトウモロコシのバウチャーになるという、干ばつ被害支援の仕組みがあります。その為、女性や子供みたいな若者も多く出場していました。彼らは必ずしも完走狙いではなく、ひとつでも多く腕輪をもらい、家族の食糧にする為に走っている側面もあるのです。
【自分のレース…】
自分のレースはというと、なんと今回無念のDNFでした。
今まで未経験だったのですが、ハンガーノックに陥り、最後まで回復せず。66キロ地点の10時間関門を通過できませんでした。這う這うの体でエイドに辿り着き、物を口に含むと回復したような気になるんですが、直ぐに身体が動かなくなるという浮き沈み沈みの繰り返し。コース北西の折り返しの登り下り、南の折り返しの登り下り、計4回完全に枯れた状態になってしまいました。
南側の山を降り、つり橋を渡った時点で66キロ関門のあるウリケの町まで残り8キロ。山ではないもののうねりの続く未舗装のコースで、カットオフまでは30分… ここで物理的に関門通過が無理だと自覚しました。その後は周りにいた欧米のランナー3人とウリケまでジョグ&ラン。悔しさより「ここまで来たのに、なんでかなぁ」と残念な気持ちでした。
このレースは南北3つのループを回るコースで、ウリケの町はスタート且つ関門でもあるのですが、ゴールでもあります。僕がウリケに辿り着いた時点で、石川さんは勿論、仲間3人はゴール済み。4人は北側最後のループを走っていました。ゴール付近ではランナー達が帰還する仲間たちを祝福して迎え、ゴールしたランナー達は安堵と達成感と疲労の笑顔。自分はDNFで戻ったのですが、日本の仲間からも現地の仲間からも「お疲れさん」「また来年だな」と言って貰えました。
その後、宿に戻ったりゴールゲートに戻ったり。仲間も続々帰ってきます。石川さんは男子5位!一緒に旅したみどりさんも女子4位!2人は閉会式の壇上にて表彰されました!!メデタイ!!
【振り返って…帰国して…】
この旅はレースが主目的ではありましたが、その中で体験できたトピックが多過ぎ、さらにその一つひとつが非常に濃いという、贅沢なトリップになりました。勿論レースに完走できなかった事は残念でなりません。ですが、レースに関わるコミュニティの温かさが、トレイルランナーで良かったと思わせてくれたのです。
この大会は今まで日本で当たり前に行っていた、エントリーして、会場に行って、走って、帰るだけという、お客様的な大会とのかかわりとは違う体験でした。地元行政主催の大きな催しもあったのですが、主催側の顔が見え、参加するランナーも大会を一緒に作り、主催者も一緒に楽しむ。「大会はみんなでやるもの」そんな空気がありました。
この空気感、主催者や常連の多くが北米のトレイルランナーであり、そのコミュニティのノリが反映されているのではないか?と現地で仲間と話していました。北米のシーンについては岩佐さんの発信するD/Cを中心にちらほらと話を耳にする程度ですが、200~300人規模のローカルな50mile、100mileレースが、地元のランナーコミュニティ主催で多くの土地で行われているとか。
地元の自慢のトレイルで大会を主催し、大会を楽しむ。遠くから来た連中を笑顔で迎える。こういった大きすぎないトレイルランナーコミュニティの繋がり、ホスピタリティは最高だと思います。
今年の大会はララムリ、メキシコ人、外国人合わせて公表600人の大会でした。ララムリが一番多かったと思いますが、600人も人が居ただろうか?というくらいの印象。UMCBに関しては地元発信地元主催ではないのですが、常連たちがそんな空気を作ってくれていました。
この大会から3週間後、僕は仲間たちが絶賛していた、ある大会に参加しました。
六甲を全山縦走して、さらに往復するw 「六甲縦走キャノンボールラン」 です。春秋の年2回。春は須磨スタート、秋は宝塚スタートと交互に開催される往復で112キロ(弱?)の大会です。
この大会で僕はコッパーキャニオンで感じたホスピタリティと同じ感覚を覚えました。地元神戸を中心に、六甲山系をホームトレイルにしている関西のトレイルランナー達の作る大会の空気が素晴らしいのです。この大会も参加者全員で作り、楽しむレース。この春は過去最大の約350人が参加しました。
このレースはトレラン界で日本最大の草レースと呼ばれています。大きな大会も良いのですが、僕はこれからは地元のトレイルランナー主導の草レースがアツイと感じています。トレイルランニングってそんな性格がぴったりなアクティビティだと思うんですよね。これからはそんな大会が増えるでしょう。また口コミで噂を聞きつけて遊びに行きたいなと思っています。
【終わるよ!】
そんなこんなだった、ハンダのメキシコレポ、長文失礼いたしました。
休みを取得するのが大変だった今回のUMCB参戦。無理をしても現地に行った価値はありました。休みを取って本当に良かったです。
これから参加を考えている方は、やはり『BORN TO RUN』を読んでから行くことをお勧めします。もう読んでるかな?あの物語を読んだ後、巻末のデータや登場人物のウェブサイトなどを見て、現実との地続き感に高揚した方も多いと思います。当たり前ですが、物語に出てくる現場に実際に行くのです。地名のひとつも感慨深く感じたりしますし、物語の登場人物たちと会って話して、一緒に時間を過ごすのはやはり嬉しいものです。
今回の旅は幸運にも様々な仲間の助けを得られ、素晴らしい旅程を組むことができました。仲間に感謝です!!当然、現地へのアクセスは僕らの行き方だけではありません。皆さんもキッチリ下調べして参戦してみてください。今回の旅のメンバーを見付けたら、皆質問ウェルカムですので、是非声を掛けて下さいね。
来年の大会も既にエントリーが始まっています。僕は行くつもりですが、まだ現実感がありません。今年以上に休暇のハードルが高そうです…行けるのかな…うーん…