[DC] 新春企画・原良和さんロングインタビュー

【編者より:新年あけましておめでとうございます。新春企画として、当サイトのTrail Runner of the Year in Japan 2013に選ばれた原良和さんのロング・インタビューをお送りします。昨年2013年はウルトラトレイル・マウントフジ(UTMF)の優勝で一躍有名になった原さん。2014年は春から県立病院の勤務医を辞めてランニングにより本格的に取り組む予定という原さんに野球部時代の話から今年の目標まで幅広く話を伺いました。】
【追記・四万十川ウルトラマラソンのタイムに関してより正確な表現に改めました。2014.1.2】

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D/C: 原良和さんにお話を伺います。当サイトでもUTMFの優勝直後にもインタビューさせていただいていますし、UTMFのレースレポートも寄稿していただきました。また、先日の朝日新聞のインタビューをはじめ各メディアのインタビュー記事も拝見しています。今日は少し掘り下げた話題を伺いたいと思います。

: 遠いところをお疲れさまです。

灘中・高の野球部時代と走り始めた浪人生のころ

D/C: 子供の頃のお話を伺います。生まれも育ちも現在お住まいの宝塚なんですよね。灘中・高の頃はずっと野球部だったと伺いました。

: 弱い野球部で、甲子園の予選は毎年一回戦敗退でしたけどね(笑)。子供の頃から運動好きでした。両親もプロ野球のファンでしたから、自然と野球に興味を持つようになって、中学から野球部に入りました。当時はスポーツで一番存在感があるのは野球でしたからね。

D/C: 勉強もできてスポーツもできる子供だったわけですね。

: いえ、スポーツは好きでしたけど運動神経はなかったみたいで(笑)。野球部といってもいつもレギュラーで活躍できるという程ではなかったんです。でも当時から走るのでは誰にも負けなかったですね。冬場の走り込みは好きでした。

D/C: 灘中・高というと大変な進学校ですけれど、勉強もされながら野球をされていたんですよね。

: そうですね、定期試験の度に学年の中での順位が出ますから勉強も大変でした。今でもそうですけど、私はあまり口数が多い方ではないので大勢の同級生の中では目立つ存在ではなかったです。学校の中でも野球部にどっぷり浸かっていましたね。授業、野球部の練習、帰宅の繰り返しです。

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灘高校では野球漬けの高校生活だった原良和さん(前列右から二人目)。Photo from Yoshikazu Hara

D/C: そうした高校生活から医学部を目指されるようになったのはどんな理由があったんですか。

: 実は現役での大学受験には失敗して、医学部(京都大学)を目指すようになったのは浪人してからです。現役時代、灘高での成績は下から数えた方が早いような有様で、医学部志望なんていえるような立場じゃなかったんです。野球にのめり込みすぎた落ちこぼれです(笑)。浪人してからはさすがに勉強するようになりましたけどね。

D/C: スポーツでも勉強でも一つのことに集中するタイプなんですね。

: そうですね(笑)。思い返すとそんなパターンが多いです。野球部の頃も特別な指導をする監督というのはいなかったですが、自分なりにフォームや練習の仕方を研究していました。

D/C: 浪人中はさすがにスポーツは控えていたんですか。

: 実は私は大学受験で二年浪人しています。一年目はぐっと成績がのびたんですが、二年目はもうさほど伸びなくなったのでそのころからまた走り始めました。高校の同級生はみな学生生活を楽しんでいるなかで、浪人生で二十歳を迎えると思うと、「何かしなくては」と思ったんです。近くには駅伝で有名な報徳学園の選手が練習しているのもよく見かけましたしね。武庫川の河川敷を1人で走るようになりました。次第に「ランナーズ」(雑誌)を買ってトレーニングの方法を研究したり。大学に入ったら陸上を始めようか、とその頃から考え始めました。

走るドクターがウルトラマラソンと出会う

D/C: そのあたりがさすが、非凡さを感じますよね。京都大学医学部といえば少数精鋭の超難関ですから模試でA判定といっても普通は安心できないと思いますが、原さんは見切りをつけて次のことに向けて動き始めていたわけですよね。それで、無事に京都大学に入学されて陸上部の門を叩いたと。

: そうですね、全学の陸上部ですからいわゆる体育会です。当時は水野監督率いるアメフト部が日本一を目指していた頃で、同じグランドで練習していました。

D/C: 陸上部では5000mや10000mといった種目を中心に取り組まれたわけですね。陸上部では刺激を受けた指導者や仲間というのはいらっしゃったんですか。

: 陸上部の仲間とも練習しましたが、次第に医学部の授業で実習が入ってくると時間が合わなくて、夜遅くに1人で練習することが多くなりましたね。当時は仲間同士で教え合ったり、先輩がトレーニングのメニューを決めたりしていて、監督やコーチといった指導者というのはいなかったです。陸上部仲間では一学年下に佐々勤(京大工学部から旭化成、2001年北海道マラソン優勝、フルマラソンPB 2:11:25)がいて、刺激を受けましたね。ただ、持って生まれた才能の差も思い知らされました。

D/C: 当時のランナーとしての記録はいかがでしたか。

: 私はあまりスピードが出なかったので、一線級の活躍とはいえないですね。長距離走に取り組むこと自体が楽しかったんですが、何かで優勝したりといった結果は残せなかったので、どこかやり残した感覚が残りました。

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京都大学陸上部で走り始めた原良和さん(ゼッケン103)。Photo from Yoshikazu Hara

D/C: それで学生時代の最後の年にフルマラソンに挑戦されたんですね(淀川市民マラソン)。

: 2時間36分というタイムで2位でした。自宅からも遠くない枚方で行われた市民マラソンですが、まだまだ速い人がいるんだと思い知りましたね。

D/C: そして医学部を卒業して研修医となるわけですが、それからもランニングへの熱意は衰えなかったわけですね。

: まあ、他にすることもなかったんです(笑)。ただ、学生時代も誰かにいわれて走っていたわけではなく、自分の意志でやっていました。卒業してからもその点では学生時代と変わらなかったんです。

D/C: とはいうものの、若い研修医の仕事は激務で自由になる時間も少ないですよね。

: 朝も早くて、夜も8時、9時までという生活が続きますから、なかなか仕事のあとに走ろうという気持ちにはならなかったですね。するとどうしてもタイムは落ちます。週末に合間をみて身体を動かしていました。

D/C: 研修医時代に同じ研修医だった奥様(朋子さん)と出会われて、それまでランナーではなかった奥様と一緒に走るようになったと聞きました。

: そうです。私が走っているという話をしていて、じゃあ一緒にホノルルマラソンを走ろうということになったのがきっかけです。妻は当時まったくの初心者でしたから私が計画を立てて一緒に練習しました。一緒に歩くことから始めて、少しずつ走る距離を伸ばしていって、短いレースに出て、といった具合です。

D/C: 原さんは奥様にとってはコーチでもあったわけですね。その甲斐あって奥様も実力を発揮されていますね。

: 妻は2回目の優勝となった今年の四万十川ウルトラマラソンでは8時間5分でした。まあ、そろそろ頭打ちかなと思いますけどね(笑)。

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D/C: 原さん自身の話に戻りますが、研修医の忙しい生活から再びレース、特にウルトラマラソンで活躍されるようになったのは何がきっかけだったんですか。

: やはり、9年前くらいから平日に走れる生活パターンができたことが大きいですね。平日に走るようになると体重も落ちて走るための身体ができていくのが実感できました。次第に別府大分、福岡国際、びわ湖といったフルマラソンの大会に出られる(基準記録をクリアできる)ようになって、手応えを感じるようになりました。

D/C: 原さんの現在のフルマラソンの自己記録(PB)は?

: 2:27:06です。目標を2:27切りにおくようになってもなかなかタイムが縮まらなくなったのが3年前からです。

D/C: そこがウルトラマラソンへの挑戦のきっかけになったと。

: そうですね。毎年5月3日に地元の武庫川の河川敷で開催されるユリカモメというレース(武庫川ユリカモメウルトラ70kmマラソン)があるんですが、その2009年のレースが初めてのフルマラソンを超える距離のレースでした。10kmの往復コースを7往復するというレースです。最初に挑戦した時は55km地点でリタイアです。フルマラソンと同じ勢いで突っ込んでいってエネルギー切れを起こしました。でも途中までは自分のペースで走れて勘はつかめました。翌年の同じレースでは完走して優勝しましたよ。

ウルトラマラソンとトレイルランニング

D/C: そこでウルトラマラソンに自分が向いていると気づいたわけですね。

: 地元のユリカモメで優勝したのと同じ年(2010年)に、サロマ湖100kmウルトラマラソンにはじめて出場して4位に入りました。このレースがウルトラマラソンの世界選手権(IAU 100km世界選手権)への選考会を兼ねていたので、私も日本代表として出場権を得ました。これはやはり達成感がありましたね。

D/C: その結果出場されたのがIAUの100kmの世界選手権大会(ジブラルタル)だったわけですね。

: このレースで同じ日本代表のチームメイトだった中台慎二君が優勝しました。私は13位だったかな。ちょっと練習が順調に進み過ぎて疲れを残して当日に臨んでしまいましたが、7時間を切ることができて手応えを感じました。

D/C: 世界のエリートランナーが集まるレースで手応えを得たわけですね。

: とはいっても市民ランナーのレベルです。でも、このころから仲間のランナーの練習が気になるようになりましたね。

D/C: そして2011年にトレイルランニングのレースを初めて走られたんですね。そのころからUTMBのようなトレイルの100マイルレースは視野においていたんですか。

: トレイルは春のハセツネ30kに出たのが初めてですね。その翌週にダイトレ(大阪府チャレンジ登山大会)にも出ました。ただ、100マイルというのは考えていなかったですね。日本にはそんなレースはまだありませんでしたし、海外のトレイルレースなんて考えてもいませんでした。100kmのウルトラマラソンのためのトレーニングとして何をすればいいか模索するうちにトレイルランニングと出会いました。タイムが伸び悩むようになって、山で走ることがトレーニングになるんじゃないか、と考えたんです。自宅からも近い六甲山が新しい練習場所になりました。

D/C: そして2012年のおんたけウルトラ、信越五岳で優勝、そして2013年はウルトラトレイル・マウントフジで優勝ですよね。そこに至るまでは周到に準備を重ねましたか。

: いえ、そんなことはなくて、たまたまコンディションがよかったのだと思います。2013年は春先のフルマラソンの成績が振るわなくて、コンディションを整えようとしていたなかでUTMFのレースを走ることになりました。

D/C: UTMFの優勝で注目を集めて、様々な取材があったり、アスリートとしての様々な誘いがあったりと2013年は原さんにとって周りが大きく変わった年ではないかと思います。アスリートとしての原さん自身に何か変わったと思うことはありますか。

: 確かにいろいろなお話をいただくようになりましたが、私自身のスタイルは変えないようにしています。練習の仕方も出るレースも大きく変わりません。

D/C: UTMF優勝のあとも2013年は四万十川ウルトラマラソンで前年に続いてご夫妻で男女それぞれの部で優勝という快挙でしたよね。四万十にはやはり思い入れはありますか。

: 今年は正直、四万十は厳しいかなと思っていたので、また二人で優勝できたのは巡り合わせがよかったのだと思います。関西からは比較的近いので、関西のランナーにとってはなじみのあるレースです。100kmのウルトラマラソンだとサロマ湖は関東からも参加者が多くてレベルが高いですが、四万十は当時10年ほど優勝タイムが6時間台に届いていなかったと思います。それなら自分が挑戦してみようと思ったのが参加したきっかけです。

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2013年の四万十川ウルトラマラソンで夫妻でそれぞれ優勝した原良和さん・朋子さん。Photo from Yoshikazu Hara

医師とランニング、限られた時間で取り組むトレーニング

D/C: UTMFでの優勝以降、勤務先でも同僚のお医者さん、あるいは患者さんとの会話の中でランニングが話題になることも増えましたか。

: 確かにこの一年は周りからいろいろいわれることが増えましたね。四万十川ウルトラマラソンはテレビでも紹介されたので、四万十のことで声をかけられることも多かったです。

D/C: 原さんの中で医師というお仕事と、ランニングというスポーツのアスリートとしての活動の間で、両方がつながっていると感じることもありますか。

: うーん、あえていえば自己管理の能力は両方で生きているかもしれないですね。ランニングでいえば練習をしすぎないとか。実は私はスポーツで大きなケガというのはしたことがないんです。例えば肉離れというのも経験がなくて、どんなものなのか分からないんです(笑)。自分のパフォーマンスがどこまで保てるか、経験を通じて学んでその範囲を超えないようにする、というのは仕事でもランニングでも共通するアプローチのような気がします。あと、私はトレーニング後の身体のケアのために鍼治療をしているのですが、これは参考書をみながら自分で自分の身体に鍼をしています。これも医者だからできることですよね(笑)。一般の方は真似をしないでくださいね。

D/C: 自分で自分の身体に鍼を刺すんですか!

: 夏のUTMBを腰の辺りの痛みでリタイアしたあとに、藁をもつかむ思いではじめました。自分で参考書や道具を買って独学です。普段から採血したりしますので慣れてますからね(笑)。マッサージやお灸は身体の表面に近い筋肉には効きますが、もっと深い筋肉には鍼が有効な印象を持っています。異物で刺激することで血流を良くする効果があるようですね。春のUTMFの後から鍼をしていれば夏のUTMBを完走できたかも、とちょっと後悔しています。

D/C: トレーニングについて、他のインタビューでお話しされていたのを読みましたが、原さんのトレーニングの基本は平日は通勤ラン、休日の六甲山で一回の練習で30キロを超えることはないとのことでした。長距離走、特にウルトラマラソンの選手というと、もっと長い距離を一日かけて走る、それが強さの秘訣といった話をよく聞きます。

: そうですよね、みんな長い距離を走るっていいますよね。そんな長い時間走れるのがうらやましいです(笑)。小さな子供もいますし、朝から一日中家を空けて走るっていうのはちょっとできないです。ただ、2週間前に出場した24時間走(台湾で開催されたSoochow International Ultramarathon、原さんは273.65kmで優勝)の前には少し長い距離を経験した方がいいと思って、4-5時間程の夜間走を一回やりましたけどね。正直なところ、自分もどんな練習がいいのかまだ分からないです。關谷良一さん(日本を代表するウルトラマラソンランナー)とお話しすると、朝4時に走り出して昼頃までかけて70キロ、80キロを走る、そんな練習をしているそうです。私からすると驚きですね。ただ、私自身の経験からいっても、一回の練習が1時間程というのでは短すぎる気がします。長距離の実力アップには最低でも30キロくらいを一度に走る必要があると思います。

D/C: ウルトラマラソンやトレイルランニングの世界で原さんが目標にしているランナー、ライバルと思っているランナーというのはいますか。

: 正直なところ、この分野でどんなランナーが活躍しているのか意識するようになったのはごく最近のことで、まだ目標とする存在というのはないですね。ただ、自分くらいのレベルに海外も含めてたくさんの選手がひしめいていることはよくわかりました。一方で、出たレースに関連して過去のすごいウルトラランナーのことを知って、調べて参考にしています。例えばヤニス・クーロス/Yianis Kouros(80-90年代に活躍したギリシャのランナーでロードでの24時間走の世界記録<290.221キロ>、トラックでの24時間走世界記録<303.506キロ>など多くの記録は未だ破られていない)です。過去にロードの24時間走で280キロを超える記録を10回以上も出していて、その上でトラックの24時間走で300kmを超えているんですね。そう知って驚きました。

D/C: もう少しトレーニングについて聞かせてください。ウルトラマラソン、ウルトラトレイルにチャレンジしようというランナーにとって一番大事なトレーニングは、原さんは何だと思われますか。よくいわれるようにやはり距離を踏むことが大事でしょうか。

: そうでしょうね。インターバルトレーニングは有効だといわれますが、私はあまりやらないですね。スピードの強化については通勤ランで最後に意識してペースを上げるくらいで、ゆったり走るのが基本です。ただ、週末のポイント練習として行う30キロ走はレースペースに近いレベルで全て出し切ります。

勤務医を辞めてランニングに打ち込む決意

D/C: 来年(2014年)以降について聞かせてください。来年からはランニングにもっと力を入れて取り組むようにすると伺いました。

: 今、お話ししたような練習のスタイルはあまり変わらないと思いますけどね(笑)。現在は県立病院の勤務医、公務員として仕事をしているわけですが、この勤務医という仕事を3月いっぱいで辞めるつもりです。もちろん、医師としての仕事は違う形で続けますが、仕事の量は今よりもずっと減らします。

D/C: すると4月以降はどんな活動に力を入れるご予定ですか。

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: 週末だけでなく平日にもまとまった練習をする日を作ってトレーニングの量は増やしたいですね。もちろん、家族との時間も大事にしたいです。今は本当におろそかにしていますからね(笑)。子供と過ごす時間をもっと作りたいですね。

D/C: サラリーマンが会社を辞めるのとはちょっと意味はちがうでしょうが、それでもこれまでの勤務医という仕事を辞めるというのは大きな決断ですよね。奥様は原さんの決断に何かおっしゃいましたか。

: 意外にも、妻は怒ったりせずに理解してくれました(笑)。私の思いを分かっていてくれたのかもしれません。収入が減ったりはするでしょうけど、まあ何とかなるかなと思っています。

2014年の目標はまずウルトラトレイル・マウントフジ

D/C: 2014年のレースなどの予定についてお聞かせいただけますか。

: びわ湖毎日マラソン(3月2日)まではフルマラソンをねらいにしていきます。シーズン初めのフルマラソンで一回は2:30を切っておくというのが目標です。その2週間後にニュージーランドのタラウェラ(Tarawera Ultra Marathon、100kmのトレイルランニングレース)に、妻と一緒に出ます。その後は4月末のUTMFを走ります。その後はまだ決まっていませんが、海外のトレイルランニングレースにもチャレンジしてみたいですね。

D/C: 2014年のレースでの目標はありますか。

: うーん。まずは4月のUTMFですね。どうしても周囲から注目されることになるでしょうから、容易に想像できるのはレース当日に舞い上がってしまってオーバーペースで中盤から失速というパターンです(笑)。そういう状況でいかに撃沈せずに自分のベストを尽くすか、という挑戦をすることになります。2013年よりも力のあるランナーが集まるでしょうから、序盤のペースは上がるでしょうね。あと、24時間走にもまたチャレンジしたいですね。先日の台湾での記録は273キロ(優勝)でしたが、途中で大事を取ってマッサージを受けたりして30分程休みました。24時間走のトップ選手はそんな休みは取らないそうなので、うまくすればもっと記録は伸ばせると思いました。280キロを目標にしたいですね。

D/C: 2014年は海外のレースにも積極的に挑戦していくつもりですか。

: そうですね。いくつか計画しています。ただ、海外のレースで結果を出すのは本当に難しいと思いました。平常心でいつものコンディションでレースを走る、ということが海外では簡単なことではないんですよね。

D/C: 2013年にリタイアされたUTMBはもう一度チャレンジされますか。

: エントリーはするつもりです。ただ、UTMBというのはなかなか厳しいレースですね。レースそのものもそうですが、そこで成果を挙げるための練習について考えると、自分の環境ではどこで練習すればいいのかと考えてしまいます。ひたすら続く標高差1000mにも及ぶ長い登り、そして下りに備えたトレーニングが必要ですが、日本の暑い夏に関西に住む自分がどうやってトレーニングするか、考えると難しいですね。春のUTMFでジュリアンに勝ったことを考えれば自分の環境でもジュリアン(2013年のUTMBで6位)くらいの走りはできるのかもしれません。もちろん、それはレース当日に向けて体調を合わせていくことができれば、という前提ですからなかなか難しいことです。

D/C: UTMBでは若手の選手が活躍するなど、スピード化が進んだ印象があります。

: UTMBでは上位のランナーは後半に入ってもペースが落ちないですよね。私もリタイアしたあとにコースの後半部分を走りましたが、タイムを比較して上位に入った選手のペースの速さを体感しました。スタミナがあるというだけでは勝負にならないですね。

D/C: 春からは生活のリズムも変わって、ますますランニングでの原さんの活躍、強い思いに触れるのができるのが楽しみです。また折に触れてお話を聞かせてください。今回はありがとうございました。

: お疲れさまでした。

プロフィール:原 良和(はらよしかず) 1972年8月生まれ。京都大学で陸上部に所属してランナーとしてのキャリアをスタート。卒業後も医師として働きながらトレーニングを重ね、最近ではフルマラソンの他、ウルトラマラソンやトレイルランニングでも活躍。トレイルレースに初挑戦の2010年ハセツネ30kでは28位。2012年サロマ湖100kmウルトラマラソン6時間33分32秒は同年世界ランキング3位。2013年はウルトラトレイル・マウントフジで優勝したほか、12月の台湾・東呉大学24時間走(Soochow International Ultramarathon)を273.65kmで優勝。妻の朋子さんも実力あるウルトラマラソンランナーで四万十川ウルトラマラソンでは2012年、2013年と連続で夫妻でそれぞれ男女の優勝を飾ったことで話題になった。1児の父。

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